かつてユーラシア大陸の大半を征服、全世界の1/4を掌中にしたとも言われる、モンゴル帝国の覇者チンギス=ハーン(1162?~1227年)。
偉大なる名を歴史に遺した彼は、最期に「自分が死んだと知られたら、他民族が叛旗を翻す」ことを危惧し、その死を隠すよう厳命。
徹底した口封じの結果、チンギス=ハーンの墓所は永く謎となり、近年「ブルカン・カルドゥン(現:モンゴル国ヘンティー県。聖なる山)の辺りであろう」という推測に基づき、2015年に世界遺産登録されました。
※なお、考古学的な発掘調査は「民族の英雄が眠っているのを、妨げてはならない」として行われていませんが、それがいいと思います。
そんなチンギス=ハーンですが、遊牧民であるモンゴル人はチベット仏教を篤く信仰しているものの、死者を祀る目的で寺院や霊廟を建てる習慣がなく、モンゴル国内に彼を祀る公的施設はないようです。
一方、中国内モンゴル自治区(南モンゴル)のウランホト市・オルドス市にはチンギス=ハーン廟があり、今なお世界の人々から崇敬を集めていますが、そのうち前者について日本人がその建立に携わっていることはあまり知られていません。
今回は、そんなチンギス=ハーン廟の建立に力を合わせた日本人とモンゴル人のエピソードを紹介したいと思います。
若き将校ドグルジャブ、チンギス=ハーン廟の建立を提言
時は康徳七1940年(日本では昭和十五1940年)、満洲国西部(現:内モンゴル自治区)に暮らす多くのモンゴル人が危機感を募らせていました。
それと言うのも、満洲国を牛耳っていた日本人たちが「満洲族は日本の同胞であり、その大地は同じ神が創造したもうた」という建国神話を広め、各地に天照大神(あまてらすおおみかみ。日本の皇祖神)を祀る満洲神社を創建。しきりに参拝を勧めていたのです。
一方、南モンゴル(現:内モンゴル自治区の西部)では、現地を支配していた漢族(いわゆる中国人。中華民国)がしきりに関帝廟(かんていびょう)を建立します。
関帝廟の御祭神は『三国志』でお馴染みの関羽(かん う、字は雲長)。文武両道に優れた名将としてその死後も神として祀られ、忠義にも篤かったことから民族を越えて崇敬を集めていました。
つまり日本人も漢族も、モンゴル民族を自分たちに同化するべく、宗教=文化面から強烈にアプローチしていたのです。
対するモンゴル民族の宗教と言えば、古くからチベット仏教やアニミズム(自然崇拝)などが根づいていたものの、民族のシンボルとなるような、目に見える施設のインパクトを前にすると、信仰心ひいてはアイデンティティが揺らぎかねません。
(※大昔、それまで宗教施設を建てる習慣のなかった日本に仏教が渡来した時、寺院に対抗するべく神社を創建し始めた状況に似ています)
「このままでは、モンゴル民族の精神が失われてしまう。何とかしなければ……」
満洲国・興安(こうあん)軍の若き将校ドグルジャブ(独古爾扎布)は、財団法人蒙民厚生会のマニバダラ(瑪尼巴達喇)理事と一緒に、軍事顧問の金川耕作(かねがわ こうさく)陸軍歩兵大尉に訴えました。
「モンゴルの宗教を象徴する施設を建立することで、民族の精神と団結を強化し、それがひいては満洲の国是たる『五族協和』に資するものと確信します!」
五族協和とは満洲・蒙古・漢・朝鮮・日本の五民族が互いを尊重し合って力を合わせ、欧米列強の支配から真に自立することが提唱され、後の大東亜共栄圏にも通じるスローガンです。
後に、提唱国の日本が大東亜戦争に敗れたため、現代では「キレイゴトを言いながら、その実態は日本の我田引水に過ぎなかった」などと全否定されがちですが、当時はそれを心から信じ、実践する者も少なくはありませんでした。
「チンギス・ハーンが亡くなって七〇〇年にもなる。いまだに彼のような偉大な人物はモンゴルからまだ現れていない。東モンゴルと西モンゴル、そして外モンゴルも含めて、やろうではないか」
※楊海英『チベットに舞う日本刀』文芸春秋、90ページ
※東モンゴル:満洲国内、西モンゴル:南モンゴル、外モンゴル:モンゴル人民協和国
モンゴル人なら誰でも知っていて、心一つに崇敬できる偉大な存在と言えば、チンギス=ハーンを措いてありません。
すべての民族が誇りを持って独立・協調することでアジアの平和が実現できる……そんな大アジア主義者の一人であった金川大尉はドグルジャブらの意見に賛同。興安街(現:ウランホト市)の北山にチンギス=ハーン廟の建設を許可したのでした。
三年の歳月をかけ、ついにチンギス=ハーン廟が完成!
さて、そうと決まればさっそくチンギス=ハーン廟の建設工事に取りかかりたいところですが、まずは先立つものが必要です。
そこでドグルジャブたちは「チンギス=ハーン廟準備委員会」を結成。バトマラブタン国家安全保障局長、ガンジョールジャブ陸軍中将、マニバダラが先頭に立ち、満洲国内外のモンゴル人に対して資金提供を呼びかけました。
「今こそ我らモンゴルの英雄・チンギス=ハーンをお祀りすることで民族精神を取り戻し、団結して独立を勝ち取ろうではありませんか!」
すると、各地のモンゴル人はもちろん、僧侶や貴族など各界の著名人もこれに賛同、たちまち1,000,000圓を超える寄付が集まったのでした。
かくして康徳七1940年(昭和十五1940年)5月5日に工事が始まりましたが、みんなワクワクして、居ても立ってもいられません。
「あぁ、早く出来ないかな!待ち遠し過ぎて、大工にばかり任せていられない!」
そこでみんな時間が空くと、手弁当のボランティアで工事現場に駆けつけて「一日でも早く完成するよう」作業を手伝い、中にはまだ年端もいかない子供たちや軍人までもが参加しました。
あまりの情熱ぶりに、満洲国軍の顧問を務めていた日本の将官たちは苦笑しつつも、この「可愛い民族主義者たち(※前掲書より)」を大目に見守っていたそうです。
工事は3年以上にわたって続けられ、ついに康徳十1943年(日本では昭和十八1943年)10月、念願のチンギス=ハーン廟が完成。そのデザインは現代でも南モンゴルにおけるポピュラーな建築様式として人々に親しまれています。
10月8日の竣工式は国内外のあらゆる人々を招待し、三日間にわたる大々的なナ―ダムが開催されました。
伝統的な競馬や弓射、そしてブフ(モンゴル相撲)の競技をはじめ、民族舞踊や音楽、文化講演など、モンゴルの民族意識がこれでもかとばかりに発揚され、ドグルジャブらにとっても感無量のひとときとなったことでしょう。
エピローグ
その後、満洲帝国の崩壊と共にモンゴル民族は共産党政権によって制圧されてしまいますが、日本人と力を合わせて建立されたチンギス=ハーン廟はその後、文化大革命の破壊も免れることが出来ました。
かつてモンゴルと日本が手を取り合い、国境や民族を越えた英雄に対するリスペクト精神の象徴として、末永く崇敬されることを願っています。
※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文芸春秋、2014年11月15日
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