読書に興味がない方でも、日本で育った方のほとんどがご存知であろう小説家 太宰治
自殺を繰り返した経歴や『斜陽』などの作品世界から、世間とうまく関われない不器用な天才というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。
太宰治の生涯
1909年6月、太宰治は青森県にて生まれます。本名は津島修治。
生家は貴族院議員を輩出するほどの名家で、彼が生まれた当時の津島家の邸宅には、30人ほどの使用人がいたそうです。学業成績は通じて優秀で、小学校では開校以来の秀才と称えられていたとか。
県立青森中学校時代に泉鏡花、芥川龍之介に傾倒し、自身も小説を書き始めます。井伏鱒二の「幽閉」を読んだ時には座っていられないほど興奮したと後に語っています。※幽閉は井伏鱒二の学生時代の作品で「山椒魚」の原型。
身長は175cmで当時としては背が高く、足のサイズも26.4cm。かなりの大食漢で近所でも評判だったそうです。
1927年、芥川龍之介の自殺にショックを受けた太宰は、花柳界(芸者や遊女の社会)に入り浸るようになります。学業への意欲が低下していき、優秀だった成績も徐々に下降していきました。
1930年、東大仏文科に入学します。仏文科を選んだ理由は、当時の仏文科は英文科や国文科と比べて人気だったため、試験があってないようなものだったからでした。同年、井伏鱒二に小説家の弟子として入門します。また、芸者の小山初代と入籍します。
この時、名家の息子が芸者と結婚することを好まなかった兄により、津島家から分家除籍されています。
1935年、同人雑誌で発表した『道化の華』が佐藤春夫の目にとまり、小説家・太宰治が世間に認識されるようになります。
1937年、前妻初代と離婚し、翌年には石原美知子という女性と結婚します。媒酌人は師匠である井伏鱒二でした。
この時、太宰治は井伏鱒二に対し、「結婚誓約書」という文書を提出します。内容は、今までの自堕落な生活を改め、しっかり家庭を守るというものでした。このおかげか、この時期は精神的に落ち着いており、『女生徒』、『走れメロス』、『富嶽百景』など数々の名作を書き上げました。
その後も『斜陽』がベストセラーになるなど流行作家の仲間入りを果たしますが、1948年、美容師の山崎富栄と玉川上水に入水し、亡くなりました。満38歳没。
38年の人生で5回の自殺
太宰治というと自殺を連想してしまうくらい、彼は多くの自殺未遂をしています。
・1回目:自身の出生に絶望して自殺未遂
芥川龍之介の自殺にショックを受け、花柳界に出入りはじめていた頃、左翼思想に染まっていった太宰治は、己が資産家の息子であることを恥じ、薬物自殺を図りました。
・2回目:分家除籍にショックを受け自殺未遂
小山初代と入籍した時、兄から除籍を迫られたことにショックを受け、いきつけのカフェの女給だった田部シメ子と心中を図りました。※田部シメ子のみ死亡
・3回目:大学卒業できなくて自殺未遂
津島家から除籍されたとはいえ、まだ学生だった太宰治は生家から仕送りを貰っていました。ただし、卒業することが条件。
花柳界に入り浸って講義に出ていなかった太宰治は卒業の見込は薄く、かわりに就職試験に挑戦するも不合格。仕送りの中止を恐れて首吊り自殺を図りました。
・4回目:妻の不倫に激高し、自殺未遂
薬物中毒で太宰治が入院中のとき、最初の妻の小山初代が不倫をしてしまいます。それを知った太宰治は初代を連れ、水上村の谷川温泉で心中しようとしました。
・5回目:小説を書くのがいやになったから自殺
愛人、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」という内容の遺書が残されていました。
繊細さとは裏腹に…
太宰治は挫折に傷付き、自殺を図る繊細な姿が思い浮かびますが、ガツガツした攻撃的なエピソードも残っています。
・第1回芥川賞の選考メンバーの1人であった川端康成が、太宰の私生活の乱れを理由に他の作品を推したことに対して、『文藝通信』で「刺す」「大悪党だと思った」と書いている。第2回芥川賞では目にかけてもらっていた佐藤春夫に「芥川賞をください」という内容の4mにも及ぶ手紙を出したが候補にもあがらず、第3回前には批判した川端康成に受賞懇願の手紙を送ったが、過去に候補となった作家は選考から外すという新たな規定ができたために、候補にすらならなかった。
・敬愛する芥川龍之介が理想とし、尊敬していた志賀直哉の小説を太宰治も愛読していたが、志賀直哉に自身の小説を批判されると一転、「如是我聞」という随筆の中で、志賀直哉のことをアマチュアだとけなしている。また、『斜陽』に登場する貴族の女性の言葉遣いがおかしいことを学習院出身の志賀直哉に指摘されたが、「宮様が『斜陽』を読んで感動したと言ってるんだから、それでいいじゃないか」と反撃している。
おわりに
繊細な文章や自殺、薬物依存、不倫など破滅的な行動を繰り返していることから、繊細で傷つきやすい天才作家という印象が強い太宰治。
その彼も私たちと変わらない(むしろ強いくらい)賞をとって認められたい、嫌いな相手に一泡吹かせたいという俗な面がありました。
太宰治の文学が人々に愛される理由は、芸術性の中に彼の持つ世俗さが垣間見えるからなのかもしれません。
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