信長はどうやって力を得たのか?
織田信長は、明智光秀に謀反を起こされた本能寺の変の時全国の約3分の1の領土を支配していたとされている。
名だたる戦国武将の中で、どうして信長はそれだけの力を得ることができたのだろうか?
信長の強さの秘密について検証してみた。
人材登用
当時の軍は普段農業に従事している人たちを戦の時に兵隊として駆り出していた。
しかし、それだと農繁期に戦があった場合、兵を集めることが出来なくなってしまうというデメリットがあった。
そこで信長は考えた。戦のための兵をあらかじめ雇うことにしたのだ。
農家の次男・三男などを傭兵として雇い入れる。これによっていつ戦があってもすぐに出陣が可能となり、戦の無い時には訓練が出来る。さらに兵の個人の武力も向上しやすく強い軍が出来上がるというわけだ。
また、その家臣たちを自分の小姓や遊び相手、剣術等の修練の相手として側におき、その中から信長は黒母衣衆と赤母衣衆というそれぞれ10人ほどの親衛部隊を組織した。この部隊は信長のためには命を投げ出すという覚悟を持ったエリート精鋭部隊であった。
彼らは幼い時から信長と共に行動し一緒に遊び、信長のために命を投げ出すことが出来た。
その中には滝川一益・前田利家・佐々成政などがいた。そして戦功に応じて彼らを出世させ、やる気を引き出した。
譜代の家臣の他に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や明智光秀といった、外部からの人材も取り入れて譜代の家臣たちとも競わせている。
秀吉は身長が154cmほどの小柄な男で、戦いでの戦功は多くはなかったはずだ。
しかし、信長は秀吉の「人たらしの才能」を見抜き、美濃攻略において懐柔作戦を命じた。
秀吉の交渉術により多くの武将が織田方へと寝返り、武力以外で貢献した秀吉を信長は異例の早さで出世させた。
武力以外の能力を発揮して出世した家臣のもう一人が明智光秀だ。
光秀が信長に仕えたのは40歳を超えてからだとされているが、織田家臣団の中では秀吉よりも早く城持ち大名にしている。
また、信長は弥助という黒人を自分のボディーガードとして側に置き、屋敷も与えて天下統一を成し遂げたら大名にしてやると言ったという。
本能寺の変の時に「信忠を守れ」と命じられた弥助は、本能寺を密かに脱出して信忠のもとに向かったが、残念ながら信忠が自害した後であった。
信長は父の代から仕えていた重臣たちの他に、自分の幼い時からの遊び仲間、外部からの人材活用、専属の傭兵の育成など、当時の戦国武将が行っていなかったことを実践している。
経済力
信長の父・信秀は尾張の守護代でありながら、尾張一の港町・熱田を手中にしてそこから商業を活性化していた。
そこからもたらされる莫大な税を武器などに回して戦に活用していた。
そのような状況を幼い時から目にしていた信長は尾張・美濃を平定する頃には「楽市楽座」を奨励した。
信長は多くの座の特権を保障して、不要な関所を撤廃して流通を活性化し、都市の振興と経済の発展を図った。
また、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた。
足利義昭を奉じて上洛し、第15代将軍に就任させた後、義昭から管領職や副将軍を打診されたが、信長はそれを固辞。
代わりに堺・大津・草津の代官職を所望し、それを許されている。
当時の経済都市の3つを抑えた信長には莫大な税収入が入ることになった。
その経済力を背景に信長は天下統一へと動き出すのだ。
街道整備
戦国時代の道路や街道は悪路が多くて狭く、川には橋も架けなかった。これは敵の進軍をさけるためにわざと悪路にしていたという。
しかし信長は多くの戦国大名とは異なり「入江や川には橋を架けて、道路には石を取り除いて悪路をならせ、街道の道幅は3間2尺として街路樹として松と柳を植えろ、街道付近の民には道の清掃と街路樹の手入れをせよ」と命じた。
当時の街道の道幅の平均は1間(約1,8~2m)であったので、信長が命じた道幅は当時の3倍であった。
そして川には幾つもの小舟を並べ、その上に板を置くなどして橋を造った。
今までの街道は山賊などの野盗が多かったが、見通しが良くなったことで山賊が少なくなり商人の流通が発展した。
また、信長は今で言うバイパスも造った。
岐阜から京都に向かうには磨針峠という難所があったが、信長は約3万人を動員して掘削工事を行い約12kmのショートカットに成功している。
ここで一つの疑問が生じる。前述したとおり戦国大名の多くは防御の一つの策として、敵の進軍に有利となる街道の整備や橋の整備をしなかった。
信長は敵の進軍を容易にすることを覚悟した上で決断したのだ。
街道を整備することで自分たちの進軍の時間を短縮でき、商人たちの流通を整備することで莫大な経済力を得る方が、総合的に得策だと考えたのである。
武器の改革
上洛した信長に堺の豪商・今井宗久が面会を求めて来た。
信長は今井宗久に鉄砲の量産化を依頼し、宗久は畿内の鋳物衆を集めて鉄砲の量産化をすすめた。
信長は3,000丁の鉄砲を確保。武田勝頼との長篠の戦いで合戦に臨む。
当時最強と言われた武田の騎馬軍団に対して、信長は鉄砲隊を編成して対峙した。
通説では連射が出来ない当時の鉄砲の欠点を、3段構えという戦法を用いて武田軍に大勝したといわれている。
この戦い後、鉄砲という新たな武器は戦国時代の主流武器となっていく。
当時の槍の長さは2間~2間半(およそ3.6~4,5m)だったが、信長は3間半(およそ6,3m)という長さに変更した。
持っているだけでも大変な長槍を兵たちに持たせて訓練を積ませた。
「槍の又左」と呼ばれた前田利家はその長い槍を駆使して戦場で活躍した。
長槍兵たちは横一列に並び最前線で戦い、他国の諸将は倍近い長さの槍の攻撃に驚いたという。
恩賞の改革
当時は武功を挙げた者には領地を与えるのが当たり前であったが、信長は領地に代わって茶器を与えた。
信長は新しい物を好み、今井宗久に教えられた茶の湯に没頭し、名物と言われる茶器を全国から集めた。
そして、その高価な茶器を恩賞として家臣に与えたのである。
茶器の名品の価値は上がり、その茶器を使った茶会を開催して武功を挙げた家臣たちを茶会に招いた。
秀吉たち信長家臣団は茶会に招かれることが名誉となり、武将たちは全国から茶器を買い集めたという。
報奨としての領地には限界があるし、下剋上が盛んだった戦国時代において領地を与えすぎることもリスクである。信長は茶器という新たな褒美の価値を生み出し、うまく活用した。
滝川一益は武田家を滅ぼした時に土地を恩賞として貰ったが「茶器の方が良かった」と言ったという。
おわりに
信長は堺という日本一の経済都市を手に入れて、楽市楽座を推奨して城下町を発展させて莫大な経済力を持つようになった。
圧倒的な経済力を使って当時かなり高価であった鉄砲を量産化させ新たな武器として活用し、天下統一にあと一歩のところまで突き進んだ。
人事、経済、政治、戦略、戦術、武器など全てが革新的で、改めて信長は凄い人物だったことがわかる。
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