戦国三英傑の居城
戦国三英傑とは、数多くの武将たちがしのぎを削り領土を奪い合った戦国時代に、天下統一を目指した三人の戦国武将「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」のことである。
彼ら三人は現在の愛知県にあたる尾張国・三河国の出身であるが、天下取りを狙った彼らの居城である信長の安土城、秀吉の大坂城、家康の江戸城は、尾張・三河ではなかった。
戦国大名の権威と威厳を示す居城には、三人とも並々ならぬ威信をかけて築城したはずである。
そこで今回は戦国三英傑の居城となった「安土城」「大坂城」「江戸城」を築城した大工の棟梁や、城の特徴などについて解説する。
安土城
安土城の棟梁を務めたのは、尾張の大工で熱田神宮の宮大工の棟梁であった岡部又右衛門(おかべまたえもん)である。
元々岡部家は、室町幕府将軍家の修理亮(修理職)を勤めた家柄であった。
又右衛門は天正元年(1573年)に近江・佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を建造し、天正3年(1575年)信長の熱田神宮造営に被官大工として参加して信長の信頼を得たという。
安土城は標高198mの安土山に建造され、大型の天守を当時の日本で初めて持つなど当時の日本国内にはなかった威容を誇り、地下1階地上6階建ての天守は高さが約32mもあった。
それまでの城にはない独創的な意匠で豪華絢爛な城であったと推測されている。(※焼失しているので記録(書物)でしか残っていない)
日本の城の歴史という観点では、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣に天守の上る城となった。
当時は天守を天主と呼んでおり、信長だけが「天主」とすることが許されたという。
築城に携わった棟梁の岡部又右衛門は、築城に相当苦労したことが想像できる。
この安土城で培われた築城技術が、その後の安土桃山時代から江戸時代初期にかけての近世城郭の範となった。
安土城の総奉行は丹羽長秀、普請奉行は木村高重、大工棟梁は岡部又右衛門、縄張奉行は羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次・小沢六三郎・吉田平内・大西某、瓦奉行には小川祐忠・堀部佐内・青山助一があたった。
高層の木造建築を立てる場合、中央に心柱を立てるのが日本建築の特徴だが安土城天守の礎石は中央部の1つだけが欠けており、通常の天守は居住空間としては使用されなかったが、信長はこの天守(天主)で生活をしていた。
又右衛門は大工棟梁として5重7階の天守造営を子・岡部以俊(岡部又兵衛)と共に指揮し相当苦労したと伝えられ、その功によって信長より「総大匠司」の位と「日本総天主棟梁」の称号を与えられて小袖を拝領したという。
又右衛門は本能寺の変の際、信長と同宿して共に戦死したという説もあるが、生き延びて織田信雄に仕えて尾張国中島郡赤池郷、熱田にて200貫文の地を宛がわれたという説もある。
没年は不明で、死後は孫・宗光が相続して「岡部又右衛門」を名乗ったという。
大坂城
天正11年(1583年)から慶長3年(1598年)にかけて天下人・豊臣秀吉が築いた大坂城の遺構は、現在ほとんど埋没している。
現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は元和6年(1620年)から寛永6年(1629年)にかけて、徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城の遺構であり、それは大坂夏の陣で焼失してしまったことが原因だ。
城壁に現存する櫓や石垣なども全て徳川氏・江戸幕府によるもので、天守は昭和6年(1931年)に鉄骨鉄筋コンクリート構造によって復興された創作物なのである。
大坂城は豊臣氏が築城した当初の城と、大坂夏の陣で落城後に徳川氏が修築した城とでは縄張や構造が変更されている。
現在、地表から見ることができるものは江戸時代のものであるが、堀の位置や門の位置などは秀吉時代と基本的には大きな違いはない。
豊臣大坂城の初代築城総奉行は黒田官兵衛が縄張を担当し、輪郭式平城で本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配している。
秀吉は官兵衛に大坂の市街から天守が良く見えるように天守の位置、街路などを工夫し、安土城の石垣技術をそのまま踏襲しており、現在の「大阪城」の地下7mから当時の石垣が発見されている。
大坂城築城の大工の棟梁は謎とされており分かっていない。徳川家康に仕えた大工の棟梁・中井正清の父である法隆寺番匠(宮大工)の中井正吉が天正11年(1583年)に片桐且元に請われて築城に参加しているなど、尾張・三河以外からも日本各地の名工が集められたという。
秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城の普請を要請した。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながら全ての面でそれを凌駕することを目指した。
大天守は外観5層で飾り瓦、軒丸瓦などに黄金をふんだんに用いた。
本丸には金銀の装飾にあふれた奥御殿、大天守の各階には財宝の山、空前の富の集積を誇示して来訪者を驚嘆させたという。
本丸の築造には約1年半、その後も15年の歳月をかけて難攻不落の巨城に仕上げた。
大坂の台地の北端を造成した大坂城は北・東・西の台地上にある本丸から見て低地になっている。
北の台地下には淀川とその支流が流れ、天然の堀の機能を果たすと共に城内の堀へ水を引き込む役割を担った。
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる城の南側で、真田信繁(幸村)は大坂冬の陣の直前に半月形の出城(砦)・真田丸を構築して徳川方と激戦を交えた。
徳川氏の大坂城は以前の石垣と堀を破却して天下普請(全国の諸大名に造らせる)を行い、築城の名手と言われた藤堂高虎を総責任者として築城された。
高さ1~10mの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城は地中に埋もれてしまった。
天守や建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替え、新たな大坂城は秀吉時代の4分の1に縮小されたが、天守は高さも床面積も秀吉時代のものを超える規模のものが構築された。
大坂城の天守は天正・寛永・昭和とこれまでに3度造営している。1度目は元和元年に焼失、2度目は寛永5年に落雷により焼失、昭和6年に現在の天守が竣工された。
江戸城
家康が江戸城に入城した当初は太田道灌の築城した小規模な城であり、築城からかなり時がたっていて荒廃が進んでいたために、本丸・二の丸・西の丸、三の丸・吹上・北の丸を増築、道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。
その残土を現在の西の丸下の埋め立てに利用し同時に町作りも行っているが、当初は豊臣政権の大名としての改築であったので、関ヶ原の戦い後の政権掌握後とは規模が違っていたのだ。
関ヶ原の戦い後、天下人となった家康は慶長8年(1603年)天下普請による江戸城の拡張に着手した。
全国の諸大名から石材を運送させて増築し、外郭石壁普請に20名の有力大名をあてた。
天守台の築造は黒田長政、石垣の普請は山内一豊・藤堂高虎・木下延俊、本丸の普請は吉川広正・毛利秀就、城廻の普請は遠藤慶隆などであった。
江戸時代初期の大工頭(棟梁)を務めたのは中井正清(なかいまさきよ)である。
正清の父・中井正吉は法隆寺の番匠(宮大工)で大坂城の築城に参加し、方広寺大仏殿造営時は大和の大工を束ねた司であった。
正清は天正17年(1589年)家康より200石の知行を得て、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで家康の供を務めて陣羽織を拝領すると共に500石の加増を受けた。
家康の作事方として二条城の建設に活躍、その後江戸城・知恩院・駿府城の天守・江戸の町割り・増上寺・名古屋城・二条城・内裏・日光東照宮・久能山東照宮・方広寺など徳川家関係の重要な建築を多数担当した。
正清は大工の棟梁でありながら武将と同じ扱いを受けていたという。大坂の陣の直前には家康の密命を受けて大坂城の絵図を作成した。
慶長11年(1606年)には従五位下大和守に任官し、慶長14年(1609年)には1,000石に加増、慶長18年(1613年)には従四位下に昇進、江戸時代初期の大工の棟梁としては一番出世した男である。
江戸城は慶長12年(1607年)に関東・奥羽・信越の諸大名に命じて天守台及び石塁などを修築、この時は築城の名手・藤堂高虎が設計したとされている。
秀忠時代になっても石壁・石垣・枡形の修築などを諸大名に普請させて、将軍の居城として天下一の規模を誇ったのである。
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凄いこの記事は歴史好きの盲点的なポイントを
鋭く調べたいい内容でしたね