千利休の切腹
天正19年(1591年)2月28日、1人の茶人が切腹して果てた。侘び茶の完成者で「茶聖」と称された「千利休(せんのりきゅう)」である。
その首は無残にも京都の一条戻橋のたもとに置かれ、木像の足に踏み付けられるようにして晒された。
そんな惨いことを命じたのは時の天下人・豊臣秀吉である。
しかし、元々信長時代3番目の茶頭だった利休を筆頭茶頭に取り立てて重用したのは秀吉である。
「秀吉はなぜ一介の茶人・利休に近づいたのか?」
そこには茶の湯と政治の驚くべき関係があったようだ。
「北野大茶湯」という1,000人もの客人をもてなした秀吉主催の世紀の大茶会、その目玉は「黄金の茶室とくじ引き」であり、この盛大な茶会を取り仕切ったのも利休だった。
秀吉の天下統一事業に密談の場とされたのが茶室であった。利休は諸大名の茶の湯の師であり、政治の裏を知る最重要な人物となり、秀吉の弟・秀長に次ぐ権勢を誇ったのである。
千利休はなぜ秀吉に切腹させられたのか?その真相について調べてみた。
千利休の出自
千利休の幼名は田中与四郎(與四郎とも)、後に法名を「宗易(そうえき)」、号は「抛筌斎(ほうせんさい)」だが、ここでは一般的な「利休(りきゅう)」と記させていただく。
利休は堺の豪商で倉庫業を営む生業とする「魚屋(ととや)」を営む田中与兵衛の長男として、大永2年(1522年)に堺で生まれた。
家業は海産物の取引をする傍ら、所有する倉庫などを塩魚など独占的に扱う商人たち貸す倉庫業(納屋衆)を営み、堺屈指の豪商であった。
実は田中家は元々武家で、利休の祖父・田中千阿弥は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをする唐物奉行であり、利休の審美眼は祖父の影響があったのではないかとされている。
祖父の千阿弥から利休の「千」という姓は由来しているのである。
利休が生まれた堺は当時日本一の南蛮貿易の港町で、戦国大名に頼らずに町衆と呼ばれる有力商人たちが自ら治める自治都市であった。
そんな町衆たちの間で流行していたのが「茶の湯」だった。
「茶の場」は社交や商談のために欠かせない素養の1つであり、交易などで巨万の富を築いた商人たちは「名物」と呼ばれる高価な茶器を集めていた。
利休も17歳から茶の湯を習い、当代一と言われた茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事していた。
茶の湯の心につながるとして南宗寺で禅を学び「宗易(そうえき)」という法名を与えられる。
しかし19歳で父が亡くなり、それと前後して祖父も亡くなって利休が家業を継承したのである。
転機
永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府第15代将軍の座につけた。
商業・貿易の中心地であった堺に目を付けた信長は、堺を直轄地にしようと武力を持って侵攻しようとした。
堺は自治を守るために三好三人衆と共に抵抗しようとしたが、圧倒的な信長の武力の前に屈服し、信長から矢銭(軍資金)2万貫(現在の価値で500億円~1,000億円)を要求され、それを支払っている。
信長は堺を鉄砲の供給地とし重要な拠点とした。
その時に信長は堺とのつながりを強固にするために、堺の政財界の中心人物で茶人でもあった今井宗久・津田宗及・そして利休を「茶頭(さどう)・茶の湯を司る役職」とし、今井宗久を筆頭茶頭にし、津田宗及が2番目で、利休は3番目の茶頭となった。
信長は「御茶湯御政道(おちゃのゆごぜいどう)」を推し進め、臣下にも茶の湯を奨励した。
この当時、戦の褒美は土地(領地)だったのだが、戦の度に土地を与えることで褒美とする土地が少なくなってしまったのである。
そこで信長は茶の湯に目を付け、土地(領地)の代わりに名物と呼ばれる「茶器」を与え、その茶器を使った茶会の開催という新しい価値観を作り上げた。
茶の湯は信長の家臣だけではなく、諸大名にまで広く知れ渡っていった。
しかし、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって信長が亡くなり、主君の仇を討った羽柴秀吉が信長の後継者として天下取りに名乗りを上げたのである。
秀吉の側近
秀吉は信長と同様に茶の湯を政治に利用し、今井宗久に代わって利休を茶頭の筆頭にした。
利休の家業である倉庫業は長崎や小田原にも進出しており、秀吉は利休のもたらす情報をうまく活用しようと重要視したのだ。
利休の弟子には諸大名も多く、利休は諸大名の情報や戦の戦況などを秀吉に伝える役割も果たした。
秀吉は農民出身であった自分の権威を高めるために朝廷を利用しようと考え、禁裏(宮中)において茶会を開催しようとした。
当然、その茶会の茶頭は利休が務めるのだが、一介の商人の身分であった利休は禁裏に参内出来なかったので、時の正親町天皇から「利休居士」という居士号を与えられた。
そういった流れで当初は茶会のみ「利休」とするはずであったが、それから「利休」と名乗るようになったのである。
天正14年(1586年)豊後の大友宗麟が薩摩の島津氏に勢力を拡大され、秀吉に援助を頼みに来た時、「内々のことは宗易(利休)に、公儀(外交)のことは宰相(秀長)に」と伝えられたという。
利休は実質的に秀吉、秀長に次ぐ豊臣政権No.3にまで上り詰めていた。
利休は秀長とのつながりが深く、茶人・商人の身分であるにも関わらず、秀吉に対しても物怖じしないで意見をしたという。
それは秀吉と利休の間に秀長という緩衝材のような人がいたからであった。
北野大茶湯
天正15年(1587年)、この年の7月に九州平定を終えた秀吉は、自分の権威を示すために10月1日から10日間、北野天満宮において大規模な茶会を開催した。
なんと、この茶会の参加者は諸大名や公家、堺の商人などの他に、茶の湯に執心の者は町人・百姓など身分は問わず、釜1つ・釣瓶1つ・呑物1つ、茶道具の無い者は替わりになる物があれば持参して参加できることとしたのである。
この大規模な茶会は「北野大茶湯(きたのおおちゃゆ)」と呼ばれ、その目玉として秀吉の「黄金の茶室」が披露された。
もう一つの目玉が秀吉の他、「千利休・今井宗久・津田宗及」の当代きっての茶人3名を茶頭としての茶会であった。そして秀吉を含めた4人の茶頭の茶会に招かれるのはなんとくじ引きで決定したという。
つまり、町人なども秀吉や利休の点てたお茶を飲むことが出来たのである。
10月1日、会場には総勢1,000人が訪れたが、翌10月2日には一転して中止とされ、その後も再開されることなくたった1日で終了となった。
北野大茶湯を取り仕切ったのは当然利休で、この功で3,000石を与えられた。
怒りを買った利休 「様々な説」
こうして豊臣政権下で絶大な権力を得た利休だったが、天正19年(1591年)蜜月関係にあった秀吉と利休の間に突然の亀裂が走る。
この時、利休は秀吉の逆鱗に触れてしまったのである。
大徳寺山門木像事件説
これには様々な説があり、最も有名な説が大徳寺山門の木像事件である。
大徳寺の山門を改修する際に、利休は私財を投じていた。
それに感謝の意を表した大徳寺が、山門の2階に利休の許しを得ずに利休を模した雪駄履きの木像を安置した。
それを聞いた秀吉は、山門を通るたびに利休に足で踏み付けられていると同じであると激怒したという。
結局その木像は山門から下ろされ、京都の一条戻橋のたもとで磔にされてしまった。
しかし、これは大徳寺が勝手にやったことで利休の預かり知らぬことである。
そこで前田利家や北政所、大政所らが利休に使者を送って仲介したのだが、利休は彼らの助言に反して謝罪を断ってしまった。
(※このことが切腹の一番の理由ではないかとされている)
利休の私腹肥やしすぎ説
また、本能寺の変で名物茶器の多くが焼失してしまい名物茶器が不足していたが、利休の名声が高まると利休が勝手に鑑定を行って新たな名品を生み出し、自分でも陶工に作らせそれを高値で売って私腹を肥やしたために、秀吉の怒りを買ったという説もある。
石田三成黒幕説
他には石田三成の黒幕説がある。利休が切腹する2か月ほど前に、蜜月関係にあった豊臣政権No.2の秀長が病死してしまう。
秀長亡き後、豊臣政権の実権は五奉行の筆頭である秀吉の側近・石田三成となった。
三成にとって利休が目の上のたんこぶとなり、三成の告げ口などがあったのではないかという説である。
利休の娘説
また、利休の娘が原因とする説もある。
無類の女好きの秀吉は、利休の弟子に嫁いでいた利休の次女を気に入り側室にしようとしたが、利休がこれを断固拒絶したために秀吉が激怒したという説である。
秀吉との趣向の違い説
その他にも、2人の趣向の違いという説もある。
元々派手好きな秀吉は、「黄金の茶室」を作らせるなど派手な色を好んだ。
黄金の茶室の制作に利休が関わっていたかは明確な史料はないが、近年ではある程度関与していたという見方をされている。
しかし利休は、侘び茶の世界を確立して黒などの色を好み、茶室にも簡素な物を取り入れた。
茶室の中では利休が師匠で秀吉が弟子であり、諸大名の前で秀吉の嫌いな黒い茶碗を使ったことで秀吉が激怒したという説である。
朝鮮出兵反対説
実はこの事件の後に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が起きるのだが、利休は朝鮮出兵に猛反対していたという。
もし朝鮮が秀吉のものになると貿易の中心地は堺から九州の長崎や博多になってしまう。それでは利休のいる堺の繁栄が途絶えてしまうからである。
「主君と家臣」「師と弟子」「権威と道」など様々な思惑が重なり、山門事件が引き金になってしまったとも考えられる。
小田原征伐を終えて名実ともに天下人となった秀吉は、この頃から士農工商という身分制度を確立し、豊臣政権を盤石にしようと考えていた。
秀吉は山崎の合戦から利休を茶頭の筆頭に抜擢し、茶の湯の力を利用して天下統一を目指した。
関東の北条氏を滅ぼしたことで天下統一事業は完了し、秀吉にとって利休はただの口うるさい茶人となっていたのかもしれない。
商人が豊臣政権下で大きな権力を握ることは、秀吉がこれから推し進める士農工商の身分制度とは逆行することになる。
この事件が起きる約2か月前に秀長が病気で急死したことも、大きな要因ではないかとされている。
利休の最期
このような理不尽な要因も多かったが、秀吉は利休が謝罪の言葉を述べればもしかしたら許していたのかもしれない。
利休は頑なに秀吉に謝罪の言葉を述べることも命乞いをすることもしなかった。
2月28日、ついに利休の屋敷に秀吉からの使者が現れた。切腹の申し渡しである。
利休の弟子の大名たちが奪還することを恐れた秀吉は、利休の屋敷を3,000の上杉の兵で囲んだという。
利休は「茶室に茶の支度が出来ています」と使者に茶を点て、その後 自害して果てた。
利休の首はすぐに秀吉のもとに運ばれたが、秀吉は首の検分をせずに京都の一条戻橋のたもとに置き、利休の木像に踏ませて見せしめに晒したのである。
おわりに
利休の死から7年後、秀吉は一度取り潰した千家の再興を許している。
秀吉は利休を切腹に追い込んだ自身の短慮を後悔し、利休を偲んで利休式の食事を摂り、利休の好んだ枯れた茶室を建てさせている。
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