性差別とは
性差別とは、他人に対して性別を理由に、排除や制限などの不利益を不当に及ぼすことをいう。
女性差別や男性差別などがあり、性差別が正当なものであるという考え方は「性別主義」と呼ばれる。
日本でも昔からの男尊女卑の考え方は色濃く残っている。政治家の女性差別発言に対して多くの国民は反感を持ち、女性議員はここぞとばかりにヒステリックな反応をする。
外国に住んでいると「日本は男性社会だから女性は大変でしょう」と未だによく聞かれる。
「父親が帰ってこないと夕食に箸をつけない」とか「一緒に歩く時に何歩も下がって歩くのは本当か?」などど聞かれる。一体どの時代の話をしているのだろうか?
今年3月に発表された世界経済フォーラムの「男女差別報告書2021」で、日本は156カ国中120位(65.6%)だった。
教育へのアクセスや政治家や閣僚の数、賃金など男女差を比べ100%を「完全な男女平等」として達成度を指数化したものだが、これまでで2番目に悪い数字である。
とりわけ経済分野では労働力の男女比は他国と比べて遜色ないが、管理的職業従事者の男女比が139位、専門・技術職の男女比が105位と、かなり低い。
筆者も以前、専門職だったが職場に女性は沢山いたし、クリエイティブな仕事をする有能な女性も沢山いた。だがこと経営者となると男性が多かったのは事実である。
しかし個人的には、日本にいた時に男尊女卑だと強く感じることはなかったように思う。
だが、この数字を見てみると日本はれっきとした「男尊女卑の国」だといえる。なぜこのような社会になってしまったのか?
日本独特の人間関係
日本の人間関係は確かに複雑である。
日本には、海外にはない独特の「世間」があり、がんじがらめになって縛られていることに一因がある。
「世間」があるために差別が構造化されており、女性差別が隠蔽され、極めて見えにくい構造になっているからだ。日本には古くから世間のルールがあり、それを律儀に守ってきた。
なぜなら「世間から離れては生きていけない」と信じられており、ルールを守らないと「世間」から排除されてしまうと考えるからだ。
そのルールの中に「身分制のルール」がある。年下・年上、目下・目上、先輩・後輩、格下・格上、男性・女性などの上下の序列である。
日本語においての一人称・二人称の使い分けの種類は多く、序列によって呼び名が変わる。
英語は一人称の「I」二人称の「YOU」は1種類しかない。
つまり、対象が友達だろうが大統領だろうが同じなのである。
日本ではあらゆる場面でその都度、対話の相手と上下関係、つまり「身分」を考えて、言葉を選ばなければならないのである。
この日本の身分制ルールがなくならないのはなぜだろうか?
なぜなら、そのルールが意識の中に刷り込まれてしまっているからだ。自然に世間に習っている。そして罪悪感もなく無意識にこのルールが刻み込まれているのである。
記憶に新しい読者も多いかと思うが、ある政治家の発言が女性差別につながるとして責務を解かれた。
団塊世代のその政治家は、おそらく自分の発言が女性差別につながり、こんなに大きく取り上げられるとは思ってもいなかったのではないだろうか。
潜在意識の中で、自然に「世間ルール」が声を上げていたに違いない。
男性と女性
そもそも、男性と女性はどのように違うのか。
旧約聖書によると「神は男性を先に創造した。それから助け手として女性を創造した」とある。
つまり、もともと男性と女性は違う生物として始まった。男性にあるものは女性にはないし、女性にあるものは男性にないのだ。どちらがどう優っているということはない。
例えば、洗濯機は服を洗える。だが食品を保存できない。冷蔵庫は服は洗えないが、食品を保存できる。元々のスペックが違うのだ。
本来はお互いを尊重し、補いあうものとして存在するべきではないだろうか・
「男尊女卑」は日本の文化として、レッテルを貼られている。
改善するにはそれこそ根底の概念を変えていかねばならない。一人一人がお互いを尊重して、性別ではなく一個人として尊敬しあう社会を作っていく必要がある。
そんな社会が実現する日は来るのだろうか?
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