はじめに
兵庫県神戸市一の谷、今からおよそ800年前、この山中の断崖絶壁で伝説の奇襲作戦が行われた。
時は源平争乱の最中、急峻な崖から駆け下りた源氏勢が平氏勢を打ち破った「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」である。
それを率いた武将こそ稀代の英雄「源義経(みなもとのよしつね)」である。
源義経と言えば「天狗から剣術を習った絶世の美男子」や「舟から舟に飛び移る八艘飛びで敵を翻弄」などの伝説がある武将である。
しかし、こうした超人的な活躍の多くは後世の創作だとも言われている。
しかし義経が天才的な指揮能力を発揮し、短期間で平氏を滅ぼしたのは事実である。
そんな天才だった義経が、なぜ実の兄・源頼朝に殺されなければならなかったのか?
その背景には平氏追討をめぐる2人の戦略の違いが関係しているという。
「一刻も早く戦乱を終わらせようとする義経」と「長期戦を望む頼朝」、葛藤の果てに下した義経の決断とは?
頼朝の戦略
一の谷の合戦に敗れた平氏は四国の屋島に逃げ延び、巻き返しを狙っていた。
屋島は周囲を海に囲まれた難攻不落の要塞、その上 平氏には大きな武器があった、それは平清盛の孫である安徳天皇と「三種の神器」である。
そのため、平氏に味方する勢力が集まり、予断を許さない状況になっていた。
頼朝はこの現状を打破すべくある戦略を取った。それは徹底的な長期戦であった。
元暦元年(1184年)8月4日、頼朝は平氏追討の指揮官として弟・範頼を鎌倉から派遣した。
本州を西に進軍し、九州までの平氏側の勢力を掃討して四国にいる平氏を孤立させようと考えたのだ。
この時、頼朝は作戦の最重要課題として「屋島にいる天皇を安全に迎える」「三種の神器を無事に取り返す」ことを範頼に指示した。
頼朝は、安徳天皇と三種の神器を使って、後白河法皇との戦後交渉を目論んでいた。
頼朝は後白河法皇に「俺のおかげで三種の神器が返って来たのではないか」と恩を売って、源氏軍を唯一の官軍としようとしたのである。
一方、義経が頼朝から与えられた任務は京都の治安維持であった。
源氏の正当性の要である後白河法皇の安全を確保することは、長期戦において欠かせない任務だった。
平氏に汲みしようとする勢力は畿内に数多く潜伏し、都のすぐ近くの伊賀や伊勢で大規模な反乱が勃発するなど情勢は極めて不安定であった。
義経はこうした平氏の反乱に尽力し、朝廷からも評価された。
義経は後白河法皇から検非違使に任官された。それは朝廷を警護し、都の治安維持にあたる重要な官職であった。
ところが、範頼派遣から3か月、頼朝の長期戦略を大きく狂わす事態が起きた。
本州の最西端まで進軍し九州を目前にしていた範頼軍の動きがピタリと止まったのである。
長期に渡る戦いで兵糧不足が深刻化、兵船の調達にも苦しみ進軍が停滞して、武士たちの士気が極端に低下してしまったのだ。
そして義経のもとに範頼軍の窮状を知らせる書状が届いた。しかし、義経は範頼からの救援要請に応えられない事情があった。
一の谷で大勝利をした2月、義経は朝廷に報告書を提出している。その中に「諸国からの兵糧調達は停止するように命令しました」という内容があった。
実はこの頃、畿内一帯では2年前の大飢饉の影響で深刻な食糧難が続いていた。
それを懸念した義経は、源氏軍に摂津を始めとした諸国からの兵糧米の調達を停止するように命じていたのだ。
都では餓死する者が続出し、検非違使となっていた義経は京都で盗みや強奪などを取り締まる役目があり、長期戦になると京都の治安が悪化するのでそれを止めなければならないと考えたのだ。
都を再び戦乱に巻き込むことはできないとした義経の脳裏には「短期決戦」という構想が芽生え始めていた。
「荒れ果てた京都を救うために短期決戦か?頼朝の意に沿った長期戦か?」
義経は思い悩むのであった。
義経の決断
義経は自ら後白河法皇に四国出撃を願い出た。つまり義経は兄・頼朝の意に叛き、短期決戦を選択したのである。
鎌倉にいる頼朝に許可を得ることもなく、後白河法皇に平氏追討を願い出た。
しかし、後白河法皇の判断は義経の出撃を認めないというものであった。
まだ平氏の残党が畿内近郊に潜んでいる可能性があり、自分を守ってくれと言うのだ。
それでも義経は諦めず、自ら法皇の説得にあたったという。
このまま兵糧が尽き、範頼軍が引き返せば今は管理下にある武士たちが平氏に寝返ってしまう。
懸命な説得な末、法皇から許しを得た義経は出陣した。
頼朝の長期戦に反する義経の行動だったが、実は頼朝はこれを事後的に認めた節がある。
義経の代理を務める武士を、その後 京都に派遣しているのだ。
例え義経が出陣したとしても「長期戦の構想自体はそう変わらないだろう」と頼朝は考えたのである。
元暦2年(1185年)2月、義経は新たな軍を編成して暴風雨の中少数の船で出撃、通常3日かかる距離を数時間で到着し、平氏の拠点・屋島を奇襲して平氏を敗走させた。(屋島の戦い)
しかし、大将の平宗盛らは「安徳天皇と三種の神器」を持って早々に逃げていたのだった。
頼朝や後白河法皇からの追撃の許しを待っていては短期決着は叶わないと思った義経は、平氏追撃を独断で決定してしまう。
屋島の戦いからわずか1か月後の3月24日、義経は壇ノ浦の戦いで勝利し、ついに平氏を滅ぼした。
しかし、安徳天皇は入水して命を落としてしまった。また三種の神器のうち「宝剣」も海に沈み、その行方は分からなくなってしまった。
戦乱を早く終わらせ、平和をもたらすという意味では義経の選択は正しかった。
だが、後白河法皇との戦後の交渉を重視していた頼朝にとっては、これは看過できない問題であった。
2人の兄弟の間に大きな亀裂が生じたのである。
悲劇の運命
再び上洛を果たした義経は、都の人々に歓喜の中で迎えられた。
電光石火の早業で平氏を打倒し、都に平穏をもたらした義経は京都の英雄となっていたのである。
中でも後白河法皇からの信頼は厚く、法皇の親衛隊長となる院御厩司に任じられた。
ところが、この1件が鎌倉にいる頼朝の逆鱗に触れることになった。
一番大きな問題は義経が都で高い評価を得たことだった。都では「頼朝の跡を継ぐのは義経だ」と言っている貴族も多かったのである。
文治元年(1185年)10月17日、頼朝はある決断を下す。配下の60余騎に京都の義経討伐をさせたが、義経は思わぬ襲撃にもかかわらずそれを撃退してしまう。
命の危険を感じた義経は頼朝への挙兵を宣言し、これまで共に戦ってきた畿内の武士たちに協力を呼びかけた。
しかし、残念ながら義経に従う者はほとんどいなかった。
彼らは平氏亡き今、源氏の棟梁として日本最大の軍事力を持つ頼朝に歯向かうことはあまりにも無謀だと判断したのである。
同年11月3日、義経は九州の緒方氏を頼り300騎を率いて京を落ちた。
頼朝の追及は止まらず義経は4年間も逃亡し、奥州藤原氏に再度匿われたが、協力的だった藤原秀衡がすぐに亡くなってしまった。
その後、頼朝の追及を受けた秀衡の息子・泰衡に攻められ、文治5年(1189年)閏4月30日、衣川の戦いで義経は自害して果てた。
享年31であった。
おわりに
伝説とも言われた一の谷合戦での「鵯越の逆落とし」は現実に行われ、今は源義経が通った道や突撃した場所まである程度特定されている。
名も知られていなかった義朝の九番目の男児は、たった2年で平氏を滅亡させた英雄となり、京の都で彼の名を知らぬ者はいなかった。
「長期戦を望んだ頼朝」と「短期決戦を選んだ義経」
2人の兄弟の運命は、考え方の相違から悲しい結末を迎えることになったのである。
これですよ!こういうのが読みたかった。鎌倉殿の13人、一人一人の武将の「……」の人の記事ばかり、草の実堂さんはこういう記事が面白いんですよ。
土着の汚らしい武将のこと、知りたいの?やっぱ義経や頼朝、義時、時政でしょう。
兄弟が殺し合う意味に納得しました。
頼朝は大河ドラマを見ていると殺し過ぎだよ!でもこの記事を読めば、殺す理由も見えてくるし、納得かな?義経は弟なのに命令に従わないし、京では英雄、藤原氏は大将軍にしようとした。これは頼朝殺すよね!
記事の表現に対する誤記と思われる部分を投稿します。
終わりにの部分、『頼朝の九番目の弟は』となっていますが、頼朝は長男ではない(三男だった筈)ため義朝の九番目の男児なら適切だと思いますが、弟として九番目ではないため日本語の表現として適切ではないと考えますが如何でしょうか。
修正させていただきます!ありがとうございます。
人間なんだから間違いは許しましょうよ!でも内容はおもしろかったですよ。