平安時代

北方の王者・藤原秀衡の栄華 「中尊寺に現存する秀衡のミイラ」

藤原秀衡とは

北方の王者・藤原秀衡の栄華

藤原秀衡の法体像

藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期まで奥州のトップに君臨した奥州藤原氏の3代目である。

奥州藤原氏は清衡・基衡・秀衡・泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、その本拠地・平泉は平安京に次ぐ日本第2の都市となった。
戦乱が続く京を尻目に平泉は独自に発展し栄華を極め、中でも3代・秀衡の時代が最盛期であったという。

秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の九男・源義経を匿って養い、源平合戦後は頼朝に追われた義経を再び匿って頼朝と対立。

秀衡は自身の死の前に「義経を大将軍として頼朝の攻撃に備えよ」と遺言を残したが、その死後に奥州藤原氏の状況が一変してしまう。

鎮守府将軍に叙任され北方の王者として君臨した藤原秀衡について解説する。

奥州藤原氏

奥州藤原氏は前九年の役・後三年の役後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの100年間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を誇った藤原北家の支流の豪族である。

北方の王者・藤原秀衡の栄華

奥州藤原氏初代・藤原清衡(清原清衡)ふじわらのきよひら

後三年の役後に清原清衡が、実父・経清の姓である「藤原」を名乗り、奥州藤原氏の初代となった。

清衡は朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかったために、朝廷は奥州藤原氏を信頼し奥州支配を容認した。

この頃は源氏と平氏の政争が起き、朝廷内では奥州に関わる余裕が無かった。そして清衡は中央から来る国司を拒まずに受け入れ、いつでも協力する姿勢を見せていた。
中央の政争に無縁だったことで奥州藤原氏は17万騎と言われる巨大な武力を蓄え、中立的な姿勢を背景に源平合戦の最中に独自の政権と文化を確立したのである。

特に砂金が豊富であり、独自に北宋との貿易も行っていたため資金力があり、清衡は平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。2代・基衡と3代・秀衡毛越寺(もうつうじ)を再興し、壮大な伽藍と庭園は京の寺院を凌いだとも言われている。

清衡によって中尊寺金色堂が建立され、屋根・内部の壁・柱など全てを金で覆ったその建物は、奥州藤原氏の権力と財力の象徴となった。

出自と権勢

北方の王者・藤原秀衡の栄華

奥州藤原(黄)の勢力図(1183年、平安時代)

秀衡は、保安3年(1122年)に2代・基衡の嫡男として生まれたとされているが、生年と生母は不明である。

秀衡が歴史の表舞台に姿を現すのは保元2年(1157年)に父・基衡を亡くし、後継者として奥州藤原氏の3代当主についた36歳の時である。

奥六郡(岩手県)を統治し、出羽と陸奥の押領使(治安を守る警察と軍事的役割)を兼任した秀衡は、17万騎もの戦闘力を有する指導者となる。
嘉応2年(1170年)秀衡は朝廷から鎮守府将軍の地位を賜り、「北方の王者」として君臨した。

秀衡が統治した頃の平泉は平安京に次ぐ人口があり、保元・平治の乱などの影響がなく、平和を謳歌する文化都市であった。

しかし今まで中立の立場で平和を保っていた秀衡のもとに、承安4年(1174年)平治の乱で平清盛と戦って敗れた源義朝の九男・源義経が亡命してきたのである。

北方の王者・藤原秀衡の栄華

父を喪い、母の常盤御前に抱かれて落ち延びる赤子の義経。歌川広重「義経一代図会」

秀衡は義経を可愛がり、平泉で6年間庇護した。

治承・寿永の乱

治承4年(1180年)義経の兄・源頼朝が、平氏打倒のために挙兵したのを知った義経は兄・頼朝のもとに馳せ参じると言い出す。

秀衡は義経を引き留めたが、その忠告も聞かずに義経は密かに秀衡の館を抜け出してしまった。
すると秀衡は、惜しみながらも義経に武勇で知られた佐藤継信・忠信兄弟を近習として付けて送り出した。

養和元年(1181年)4月頃、秀衡に対して頼朝を追討する院宣が出されたと京の都で噂になり、8月には秀衡の官位が上った。
これは平清盛亡き後の平家の棟梁・平宗盛の推挙によるもので、頼朝木曽義仲を牽制する目的で官位を上げて噂話をでっち上げたのである。

しかし、こうした平氏の要請があっても秀衡は決して動くことはしなかった。

平泉は京都や坂東の情勢を洞察した秀衡の外交手腕によって、源平合戦の戦禍に巻き込まれることはなかった。

一方、義経は木曽義仲軍を破り、平氏との一の谷の戦い・屋島の戦いに勝利し、壇ノ浦の戦いでついに平氏一族を滅亡させた。

しかしその後、義経と頼朝の兄弟仲が決裂してしまい、命を狙われた義経は行方をくらました。

秀衡VS頼朝

北方の王者・藤原秀衡の栄華

頼朝公肖像

文治2年(1186年)平家を倒した頼朝は中央政界にも発言権を増し、秀衡に「陸奥と都の交渉をしましょう」という書状を送りつける。

これは奥州藤原氏を源氏の下位に考え、鎌倉政権に従えという圧力であった。

思慮深く老獪な秀衡は、頼朝との直接対決を避けるために頼朝の申し出に従って「奥州の馬と金」を中央ではなく直接鎌倉に届けた。

頼朝の言い分を実行する一方で、もはや鎌倉との衝突は避けられないと考えた秀衡は、文治3年(1187年)2月10日、頼朝と対立して追われていた義経を受け入れた。

秀衡は義経を匿うことで、頼朝と直接対決をする覚悟を決めたのである。

頼朝も奥州に追放された院近臣の引き渡しや金を貢がなかったことを理由に攻め立て、鎌倉政権の盤石化のために奥州藤原氏を倒すこと決意する。

遺言とその死後

そんな中、秀衡は自らの死期が近いことを悟り、平泉政権を嫡子で次男の泰衡、側室の産んだ長男・国衡、そして義経の3人に託した。
家督を泰衡に継がせて政治権力を一任し、義経を大将軍すなわち軍事の最高責任者に任命したのである。

国衡には自分の正室(泰衡の生母)を娶らせ、泰衡と義父子の関係にして一門の結束を促し、「3人の結束で頼朝の攻撃に備えよ」と遺言を残した。
そして義経が平泉に入って9か月後の文治3年(1187年)10月29日に秀衡は死去した。

この遺言は当初こそ厳守されたが、文治4年(1188年)2月に義経の奥州潜伏が発覚し、頼朝は朝廷に対し泰衡に「義経追討宣旨」を下すようにと奏上した。

朝廷は2月と10月に泰衡に義経追討宣旨を下す。

文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡は、衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやってしまう。
泰衡は17万の軍勢を抱えながらも秀衡の遺言を守ることができず、義経は非業の死を遂げてしまった。

天才的指揮官だった義経がいなくなったことで、頼朝は泰衡追討軍を派遣し奥州合戦となった。

文治5年(11189年)9月3日、泰衡は35歳で殺害され、100年間も続いた奥州藤原氏の栄華は終焉した。

現存する奥州藤原氏4代のミイラ

藤原秀衡の遺骸は、ミイラとなって現在も中尊寺金色堂の金棺内に納められている。

秀衡の他にも、祖父・清衡、父・基衡、息子・泰衡の4体のミイラが発見され、泰衡のミイラは首だけであった(弟の忠衡という伝聞もある

このミイラは人工的に作られたものではなく、自然にできたものであることが調査で判明している。

調査によると秀衡の身長は164cmで当時としては大柄で肥満、しかも歯槽膿漏や虫歯など美食に由来する病にかかっていた。

秀衡の時代の国内は、相次ぐ戦乱と大飢饉や災害で都を始め全国各地で食糧難が多発していた。しかし奥州地方は食糧事情が格段に良かったことが分かる。

秀衡の棺に入れられた副葬品の数珠や剣なども舶来・国産を問わず当代最高の工芸品が数多く納められていた。

秀衡は、平和と繁栄に彩られた奥州藤原氏の黄金時代を築いた人物として伝えられている。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 06日 7:11pm

    中尊寺金色堂は世界遺産になって行きましたが、説明を聞いていなかったのか?知らなかった。
    あそこは見ておくべき場所ですよ。
    どうして秀衡は行くなと言った義経を許し、また匿ったのか?謎ですね?

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