「冷酷無情の政治家」と呼ばれた源頼朝。
先日放送された「鎌倉殿の13人」では、大泉洋が演ずる源頼朝がついに亡くなるシーンが放送され、話題沸騰となっている。
しかし死因については
「普通に馬に乗っていた頼朝が突如、意識が朦朧となり体が硬直して落馬」
といった、なんともぼやけた演出方法になっていて、なんだかすっきりしない印象を受けた方も多いのではないかと思う。
「鎌倉殿の13人」は、史料をよく研究しつつエンタメとして面白く作られた秀逸なドラマであるが、なぜこのような描かれ方をしたのだろうか?
それは、鎌倉幕府の準公式記録である「吾妻鏡」の記録に理由がある。
「吾妻鏡」には頼朝の死の時期の3年間の記録がない
「吾妻鏡 : あずまかがみ」とは、鎌倉時代に書かれた歴史書で、初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王までの将軍記である。
鎌倉幕府の準公式記録であり、起こった出来事を年代順に記録するスタイルで書かれている。
北条氏によって編纂されているので北条氏よりの史料であり「北条本」と評する研究者もいるが、日本における武家政権の最初の記録とも評され、史料的な評価は高い。
江戸時代~明治~現在においても研究され続けている史料である。
その「吾妻鏡」に、頼朝の死に関する記録が登場するのは、亡くなって約13年後の建暦二年(1212年)の箇所である。
そこには
頼朝は相模川にかけた橋の落成式に参列し、その帰りに落馬して、しばらくして亡くなった
という旨の記述がある。
しかし、ハッキリした死因についての記述がないのである。
いくら当時の人々の平均寿命が現在よりも短いとは言え、頼朝は年齢的にも53才とまだ若く、仮にも武士である頼朝が落馬だけで命を落とすというのはあまりに不自然すぎる。
そのために「落ちた時の打ちどころが悪かった」「脳系の障害が突如発生した」などのような憶測がなされ、先日放送された「鎌倉殿の13人」でもあのような演出となったのである。
徳川家康が真相を闇に葬った説
江戸幕府を開いた徳川家康は、かねてより源頼朝を尊敬していて「吾妻鏡」も愛読していた。
江戸時代中期の旗本で朱子学者でもあった新井白石の伝記「老談一言記」には
家康公は「頼朝公の死去のくだりは名将の傷となる」と仰って破り捨てられた
という旨の記述がある。
つまり、尊敬していた頼朝があまり良い死に方ではなかったので、家康がそれを隠した、という説である。
ただし室町時代の「吾妻鏡」の写本において、すでに頼朝が亡くなった時期の記述の欠落が見られるので、この説は信憑性は低いとされている。
他の様々な説
認知症だったという説
天下の大将軍が認知症で、その詳しい様子が朝廷や後世の人々に知られては対面が保てないので、詳しい記述をしなかったという説である。
糖尿病だったという説
鎌倉前期の公卿・近衛家実の「猪隈関白記」には「頼朝は飲水の病だった」という旨の記述がある。水を欲しがる病ということで糖尿病だったのではないかという推測もされているが、症状の記録はなく、直接的な死因につながる病ではないことからも、信憑性は低いとされている。
義経の亡霊を見て亡くなった説
南北朝時代の歴史書「保暦間記」では、「義経や安徳天皇の亡霊を見た」という旨の記述がされている。ただしあまりに非科学的なので、事実だとすれば統合失調症やなんらかの精神疾患で幻覚を見たということになる。しかし幻覚を見ただけでは死因とはならない。
暗殺説
源氏の鎌倉幕府はたった3代で絶え、その後、北条氏が興隆したことから北条氏が暗殺したのではないかという説もある。
実際に子の頼家と実朝は暗殺されており、その後、北条氏が執権として権力を握り続けたのは事実である。北条氏が頼朝を暗殺したために「吾妻鏡」には詳しい記述ができなかったというわけである。
「鎌倉殿の13人」でも描かれているとおり、鎌倉幕府における人間関係は実に陰湿であり、将来の敵となりそうな味方や功労者までも権力闘争の為に次々と殺している。
その権謀術数渦巻く中で勝ち抜いたのが北条氏なのである。最も腹黒と言っても過言ではない。
個人的にはこの説が濃厚と感じるが、もし事実であっても北条氏なら徹底的に口封じをしたであろうし、証拠や、ましてや史料など一片も残すはずもない。
つまり「絶対に検証できない謎となってしまっている」「その後、北条氏が興隆している」事実こそが状況証拠かと思えるのだが、真相は闇のままである。
参考文献 : 現代語訳吾妻鏡 / 眠れないほど面白い吾妻鏡
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