大正&昭和

反日の偽書・田中上奏文 「東京裁判の前提に用いられる」

東京裁判の前提

東京裁判の前提にも用いられた反日の偽書・田中上奏文

※公判中の法廷内

田中上奏文」は、戦前の日本政府が世界を支配しようと、その方針を時の首相が天皇に上奏したとされている出所不明な偽文書のことです。

しかし中国で現れたこの文書は、その後太平洋を越えてアメリカへと渡りました。そしてあろうことか日本の敗戦後、連合軍によって行われた極東軍事裁判(東京裁判)において、キーナン検事は冒頭陳述で日本政府の戦争の意図は「全世界の征服」にあったと述べました。

なぜそのような発言に至ったのかと言えば、このとき検察側の連合軍が下敷きにしていた戦犯を裁くシナリオが「田中上奏文」を根拠としたものだったためでした。

つまり「田中上奏文」は偽文書でありながらそれを前提として実際の出来事を断罪することになった、ある意味大成功を収めた反日プロパガンタの典型といえる存在でした。

「田中上奏文」の体裁

※田中義一

田中上奏文」は、文書としては昭和2年(1927年)に実際に行われた東方会議の内容を使用して、時の首相・田中義一 が昭和天皇への上奏を行ったものという体裁をとっています。

その内容は、満州・モンゴルへ向けた政策、朝鮮移民の推奨とその保護、中国大陸の開拓と満蒙鉄道の敷設、金本位制度の導入まで複数の施策に及んでいました。

この中において当時の日本政府が、世界征服に向けた一環として中国制服を企図しており、東方会議においてその基本となる方針を決定したとした内容でした。

この「田中上奏文」が世に現れたのは昭和4年の秋頃で、同年12月に南京で刊行された「時事月報」雑上において中国語で掲載されたものが初めと言われています。以後、中国国内において主にパンフレット形式で流布され広まったとされています。製作者については、様々な説があり定かではありません。

「田中上奏文」の錯誤

「田中上奏文」は、その内容以前にこれまで中国語、そして後に英語版の文書は発表されていますが、日本語で書かれた原文は未だ確認されていません。
また内容においても、明治の元勲・山縣有朋がワシントン条約についての御前会議でその内容に反対したと書かれていますが、ワシントン条約を結んだときには山縣は既に死亡しており、当然御前会議に出る事など不可能でした。

更に田中首相がワシントン会議のときに欧米を旅行したと書かれていますが、実際の田中の欧米旅行はその20年以上前であるなど初歩的な間違いが多数あり、到底信憑性のおける文書とは言えないことが明らかになっています。

満州事変以後の状況

※満州事変で瀋陽に入る日本軍

当時の日本政府は、昭和4年以降この「田中上奏文」が流布しはじめた当初から偽文書であることを認識し、外務省を通じてその流布の折締まりや、記事の取り消し措置を中華民国政府に申し入れていました。当初は単なる反日を煽る偽文書という扱いでしたが、昭和6年に満州事変が発生したことで、反日勢力によって日本を攻撃する材料として大量のパンフレットが作成され、流布されるに至りました。

翌昭和7年になると、中華民国政府自体が国際連盟の理事会においてこの偽文書を根拠として、日本の中国侵略を現すものとして活用されるようになりました。

極東軍事裁判でもうやむや

「田中上奏文」は、昭和6年頃には上海からアメリカ本土のシアトルに上陸し、そこからアメリカの複数の新聞社へ持ち込まれたと考えられています。
そうして戦後、極東軍事裁判の席においても「田中上奏文」に言及するやり取りが行われることになります。

あろうことか国際検事局は「田中上奏文」が偽文書であることを当初は認識していなかったと思われます。

そのために、「A級戦犯」の罪状のひとつに「共同謀議」が挙げられていました。
しかし、さすがに国際検事局も「田中上奏文」が偽文書であることに途中から気付いたため、以後極東軍事裁判ではうやむやな扱いのまま、追求されずに終わりました。

参考文献 : 日中歴史認識―「田中上奏文」をめぐる相剋

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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