武田信玄とは
今から500年前の大永元年(1521年)に、一人の有名な戦国武将が誕生した。
彼の名は武田信玄(たけだしんげん)、「甲斐の虎」という異名を持ち、今も日本中に知れ渡る強さを誇ったことで讃えられる人物である。
群雄割拠の戦国の世に生まれた信玄は「風林火山」の旗印のもと「戦国最強の騎馬軍団」を作り上げ、あの織田信長を震え上がらせ、徳川家康をコテンパンに叩き潰し、「戦国最強」とも謳われた武将である。
信玄が合戦に及んだ数は130戦余りで、その中で完全に負けた戦いはわずか2戦だけだったとも言われている。
しかも信玄はただ戦に強かっただけではなく、領国の経営者としてもとても優秀な人物であった。
2021年に生誕500年を迎えた武田信玄、今もなお愛され続ける戦国のヒーロー。
今回は、そんな信玄が葛藤し苦悩した頃の若武者時代にスポットをあてて、前編と後編にわたって解説する。
勝利をもたらした子
武田信玄は、大永元年(1521年)11月3日、甲斐源氏の嫡流にあたる名家・甲斐武田氏宗家の嫡男として生まれた。
実は信玄には、嫡男となる兄・竹松がいたが、7歳で早世していた。
甲斐国の守護大名だった武田氏は、信玄の父・信虎(のぶとら)の時代に戦国大名となり、後に隆盛する武田氏の基礎が築かれていた。
しかし信玄が生まれる前に、実は信虎は窮地に追い込まれていた。
武田宗家の当主である信虎は、有力な国衆(小領主のこと)が乱立していた甲斐の国をほぼ統一していた。
だが、強大な力を有していた隣国の駿河の今川氏が、信虎の拠点である甲府に迫っていたのである。
武田家滅亡の危機に瀕した信虎は甲府郊外の飯田河原に陣を張り、正室・大井の方らを避難させたが、この時大井の方は臨月を迎えていた。
そして、今川との「飯田河原の戦い」で、武田軍は苦戦しながらも今川軍の攻撃を打ち破り、奇跡的な勝利を収めたのである。
それから間もなく、正室・大井の方が武田宗家の後の嫡男となる男子を11月3日に産んだ。
信虎はとても喜び「武田に勝利をもたらした子」だとして、その子に「勝千代」と名付けた。
この勝千代こそ、後の信玄である。
聡明な神童 勝千代
名門武田宗家の御曹司として育った勝千代は、幼い時から武術や学問にとても優れていたという。
8歳の時に高僧・岐秀元伯の元で教育を受けるようになり、幼い勝千代に師が与えた「庭訓往来(ていきんおうらい)」という武士の心得を記した厚い書の中身を、たった2~3日で全て覚えてしまった。
それに感嘆した師は「孫子」や「三略」といった中国の軍略書を読ませたが、それもすぐに覚えてしまった。
とても聡明な勝千代は「神童」と呼ばれた。
勝千代が13歳の時「貝合わせ」という貴族の遊びが大量に送られてきた。
勝千代は小姓たちと貝合わせに使えない小さな貝を畳二畳分に広げさせ、それを数えてみると3,700個あった。
勝千代は家臣たちを呼んで「ここに貝は幾つあるか?」と尋ねた。
家臣たちは一つ一つ数えずに「1万ほどでしょうか?」または「2万でしょうか?」と言った。
それを聞いた勝千代は「人の目などあてにならないものだ」と思ったが「これは戦に通じる」と閃き、家臣たちに「戦で兵の数は少なくても良い、例え5,000に満たない兵でも敵は正確な数など分からないものだ」「5,000の兵をいかに1万以上の兵に見えるように動かすかが肝心だ」と言った。
その言葉を聞いた家臣たちは勝千代の聡明さに、ただただ感心したという。
天文5年(1536年)勝千代は元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の字を賜り「晴信」と改める。
実は「信玄」は出家後の法名なのだが、ここでは一般的に知られている「信玄」と記させていただく。
この前に、信玄は河越城主・上杉朝興の娘「上杉の方」を正室として迎えている。
これは政略結婚だったが、二人は仲が良かったという。
しかし上杉の方は信玄の子を産む際に、子共と共に死去してしまった。
そして元服後に、公家の三条家から三条の方を迎えたのである。
うつけを演じる
この頃、信玄は父の前でわざと落馬し、わざと書を下手に書いてみせた。
力試しの際には弟・次郎よりも体力がないような素振りを見せ、父の前で「うつけ」を演じるようになったのである。
信玄に一体何があったのだろうか?
実は父・信虎は、幼少の頃から聡明だった信玄が気に入らず小賢しいと思っていたのである。
信虎は4歳下の弟・次郎(後の信繁)を寵愛するようになっていった。
わざと「うつけ」を演じて自分に気を向けさせようとするところは、あの織田信長と同じような行動である。
2人には「嫡男なのに弟が寵愛される」という共通点があり、同じ感情や葛藤があったということが分かる。
父との確執のきっかけ
では何故、信玄は父・信虎との確執を生んだのだろうか?
ある時、信玄は父の愛馬「鬼鹿毛(おにかげ)」を譲ってもらえないかと頼んだ。
この鬼鹿毛は戦国時代を代表するほどの名馬であったという。
すると信虎は「お前はまだ若いからあの名馬は似合わない、明くる年の元服した14歳で、先祖伝来の太刀と脇差、27代までの重宝御旗・楯と鎧と共に譲ってやろうではないか」と言って、その場では断った。
すると信玄は「太刀・脇差は先祖伝来のものですから家督の相続と共にいただくべきですが、まだ半人前の身でとても受け継ぐ訳にはいきません」と返答した。
その直後に「しかし馬なれば今より乗り馴らし、1~2年の間には戦でも後塵を拝するよう務められる覚悟で所望いたしました」と言ったのである。
信玄があまりにも理路整然と自分の意見を述べた上に、しかも家督を継ぐことを前提に話したことで、信虎は腹を立てしまった。
そして信玄に
「家督を譲るも譲らないのも、このわしの胸先三寸にあることだ!先祖代々の物を譲られるのが嫌と言うならば、弟の次郎(信繁)を武田家の惣領(後継ぎ)にするぞ。父の命令を聞かない者は追放する」
と脅したのである。
父の怒りの激しさに、信玄は自刃まで考えたという。
父・信虎は向こう気が強く、他人の意見に耳を貸さない人物であった。
信玄は父を激怒させるほど、逆に聡明であり過ぎたのである。
この一件から2人は反りが合わなくなり、信虎は信玄よりも信繁を寵愛し強く期待するようになった。
信虎は小賢しい信玄よりも信繁に家督を譲ろうと思い、信玄を駿河の今川義元(いまがわよしもと)の元に送ろうと考えていたのである。
そのため信玄は父の前でわざと「うつけ」を演じたが、信虎は演技だと気付いており、余計に辛くあたるようになっていったのである。
信玄の見極め
信虎と信玄の親子関係は、修復が効かない状態にまでなっていった。
そんな様子を見ていた家臣たちも当主である信虎に同調し、信玄を軽んじるようになった者も多数いたという。
だが、信玄はただ黙って「うつけ」を演じていた訳ではなかった。
「うつけ」を演じながら、誰が父に追従し、誰が自分に目を向けてくれるのか、家臣たちの動向をきちんと見極めていた。
信玄は「うつけ」を演じながらも家臣たちを見極める力を養っていたのである。
そんな信玄を武田家の重臣・板垣信方や飯富虎昌たちは高く評価していた。
初陣
信玄が元服した天文5年(1536年)に武田氏は今川氏と同盟を結び、信玄の姉が今川義元の正室になった。
この同盟により南の今川氏の脅威がなくなったことで、武田氏は領地拡大のために信濃への侵攻を始めるのである。
元服した年の11月、父・信虎は8,000の兵で信濃への侵攻を開始した。佐久郡海ノ口城主・平賀玄信を攻めた戦いが信玄の初陣だとされている。
しかし敵の反撃と大雪のせいで武田軍は攻めあぐねた。信虎は1か月以上も膠着状態が続いたために「もう暮れも迫った12月26日でしかも大雪である、ひとまず兵を引いて翌年の春に攻め直すとする。敵も大雪の中で追撃して来ないだろう」と言って武田軍は撤退を決めた。
すると信玄は「私に殿(しんがり)を務めさせていただきたい」と初陣にも関わらず、危険な任務を申し出た。
思わぬ信玄の殿の申し出に、父は大笑いしながら「お前ごときに務まるものか」と返した。
それでも信玄は一歩も引かず、結局殿を務めることとなった。
12月27日、武田軍は撤退を開始、殿を務める信玄は300ばかりの手勢を引き連れて布陣した。
翌12月28日の午前4時、殿を務める信玄が動き出す。
本来は敵の追撃を食い止めながら甲斐へと撤退しなければならないのだが、信玄はたった300の手勢で敵陣の海ノ口城に向かったという。
敵将の平賀玄信は、武田軍が撤退したことで安堵していた。
これで正月を我が家で迎えられるだろうと、多くの家臣たちを家に帰していたのだ。
海ノ口城にはわずか80人しか兵は残っていなかったのである。
信玄は「この時を待っていた。我らで海ノ口城を落とす」と300の兵を鼓舞して平賀玄信の首を討ち取り、城下に火を放ち、平賀玄信の家臣たちを次々と討ち取っていった。
こうして見事初陣を飾ったことで、信玄の評判は「前代未聞」として武田家から他国へと広まったという。
※「甲陽軍艦」には、このように信玄(晴信)が一夜にして落城させたと伝わっているが、この伝承を疑問視する説もある。
しかし、父は信玄の活躍を「時の運に恵まれただけ」と武功を認めようとはしなかった。
初陣での殿の手柄や勇気ある行動は、逆に親子の間にまたしても大きな溝を作ってしまうことになる。
後編では、父・信虎の追放について詳しく解説する。
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