鎌倉殿の13人

親の仇はかく討つぞ…寛一郎が演じる「運命の子」公暁の生涯【鎌倉殿の13人】

鎌倉殿・源頼家(演:金子大地)と正室つつじ(演:北香那。辻殿)との間に生まれた善哉(演:長尾翼)。

次代の鎌倉殿として将来を嘱望されていましたが、幼くして父が鎌倉を追放され、伊豆修善寺で非業の死を遂げたことにより運命は急転。鎌倉殿の座を叔父の千幡(演:峰岸煌桜。源実朝)に奪われてしまいます。

やがて出家して公暁(くぎょう/こうぎょう。演:寛一郎)と改名、そのまま仏道に帰依して歴史の表舞台から姿を消すかと思われましたが……。

幼くして父を喪い、母に続いて出家する

善哉は正治2年(1200年)に頼家の嫡男として誕生しました。母親については諸説あり、『吾妻鏡』では辻殿、『尊卑分脈』だと一幡(演:相澤壮太)と同じくせつ(演:山谷花純。若狭局)となっています。

4歳となった建仁3年(1203年)に父・頼家が鎌倉を追放され、翌元久元年(1204年)に非業の死を遂げました。

ここで「善哉も殺しておけよ」と思ってしまったあなたはすっかり大河ドラマに毒されている……かどうかはともかく、「出家させるから」という約束で命ばかりは助けられます。

「早く出家させて下さいよ」

「もうちょっと待ちなさいな。ね?」

善哉を可愛がった?北条政子。菊池容斎『前賢故実』より

なんてやりとりがあったかどうか、善哉が7歳になった建永元年(1206年)6月16日、尼御台・政子(演:小池栄子)の御所で着袴の儀が執り行われました。

左金吾將軍若君〔善哉公〕自若宮別當坊。渡御于尼御臺所御亭。有御着袴之儀。將軍家入御彼御方。相州御息等被候陪膳。
※『吾妻鏡』建永元年(1206年)6月16日条

現代の感覚でいうところの「1/2成人式」と言ったところでしょうか。北条義時(演:小栗旬)の息子たちが御給仕を務めます。

「絶対に出家させる気ないでしょ」

「バレた?でも可愛いからいいじゃない」

「このままだと、誰が担ぎ出す=謀叛を起こすか、気が気じゃないんですよ」

「じゃあ、御所の猶子にしちゃえばいいじゃない。そうすれば暫定『次期鎌倉殿』候補なんだから、担ぎようがないでしょ」

という訳かはともかく、善哉は源実朝(演:柿澤勇人)の猶子になりました。

陰。左金吾將軍御息若君〔善哉公〕依尼御臺所之仰。爲將軍家御猶子。始入御營中。御乳母夫三浦平六兵衛尉義村献御賜物等。
※『吾妻鏡』建永元年(1206年)10月20日条

猶子(ゆうし)とは「猶(なお)子のごとし」で養子と違って基本的に家督や財産の相続権はないものの、あくまでも子供という扱い・身分のことです。

出家して公暁と改名した善哉(イメージ)

これで一安心……と行きたいところですが、約束は約束。善哉は12歳となった建暦元年(1211年)に出家して法名を公暁と改めました。

晴。金吾將軍若宮〔善哉公〕於定曉僧都室落餝給。法名公曉。
※『吾妻鏡』建暦元年(1211年)9月15日条

そして仏道に帰依する証しとして戒律を受ける(受戒)ため、上洛していきます。

霽。禪師公〔公曉〕爲登壇受戒。相伴定曉僧都。令上洛給。自將軍家被差遣扈從侍五人。是依爲御猶子也。
※『吾妻鏡』建暦元年(1211年)9月15日条

ちなみに母の辻殿(つつじ)は公暁が出家する前年に出家。亡き夫の菩提を弔うのでした。

鎌倉へ舞い戻り、鶴岡八幡宮寺の別当に

かくして鎌倉を去った公暁は6年間の修行を積んで、建保5年(1217年)に鎌倉へ戻ってきました。鶴岡八幡宮寺の別当に就任するためです。

晴。阿闍梨公曉〔頼家卿息〕自園城寺令下着給。依尼御臺所仰。可被補鶴岳別當闕云々。此一兩年。爲明王院僧正公胤門弟。爲學道所被住寺也。
※『吾妻鏡』建保5年(1217年)6月20日条

この人事は政子の意向だったようで、よほどこの孫が可愛かった(手元に置いておきたかった)か、また実家一族が暗殺してしまった頼家への罪滅ぼしをしたかったのかも知れません。

「まぁ、いつまでも京都にいさせると、また誰が担ぎ出さないとも限りませんしね」

さて、鶴岡八幡宮寺の別当となった公暁は熱心に神事を行い、ある日「願かけのため、これより千日のあいだ寺に籠もって祈祷(参籠)する」と言い出しましました。

晴。阿闍梨公曉補鶴岳別當職之後。始有神拝。又依宿願。今日以後一千日。可令參籠宮寺給云々。
※『吾妻鏡』建保5年(1217年)10月11日条

千日と言ったらほぼ3年間……いったい何をそんなに叶えたいのか、というより根気が続くのかと人々は心配します。

「まぁ、千日と言っても本当に千日籠もりはするまい……」

と思っていたであろうところ、1年以上が経っても公暁はまだ出て来ません。

参籠の末、髪も伸びっ放しの公暁(イメージ)

霽。鶴岳別當參籠宮寺。更不被退出。被致數ケ祈請。都以無除髪之儀。人恠之。又以白河左衛門尉義典。爲奉幣于太神宮令進發。其外諸社被立使節之由。今日披露于御所中云々。
※『吾妻鏡』建保6年(1218年)12月5日条

「聞いたか。何でも公暁様はあれからずっと一歩も出られていないそうだ」

「髪なんかも伸ばしっ放しと言うが、還俗(げんぞく。僧侶をやめて俗界へ戻ること)でもなされるつもりか」

「近ごろは白河左衛門尉(しらかわ さゑもんのじょう。白河義典)にあちこちの寺社を代参させているらしい。よほどの願をかけているのだろうな……」

ここで公暁が何の願をかけていたのかについては記録がありません。しかし、その翌月にしたことを考えれば、恐らく父から鎌倉殿の座を奪った叔父であり義理の父でもある実朝への復讐だったものと考えられます。

親の敵はかく討つぞ!ついに実朝を暗殺

実朝を暗殺する公暁。月岡芳年筆

果たして建保7年(1219年)1月27日。公暁は鶴岡八幡宮寺の石段脇に隠れ、参拝にきた実朝を襲撃。その首を刎ねました。

「親の敵はかく討つぞ!」
※慈円『愚管抄』巻第六

ついでに傍らに控えていた義時も斬り殺して本懐を遂げた公暁は、実朝の首級を抱えて後見人の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)が住む雪ノ下北谷の館へ逃げ込みます。

が、公暁が義時と思っていた太刀持役、実は源仲章(演:生田斗真)でした。義時は参拝の直前になって胸の苦しみを訴え、役目を交代してもらっていたのです。

(この事から、実朝暗殺の黒幕が義時であるとの説もありますが、まだ後継者も定まらない段階での暗殺はハイリスク・ノーリターンすぎます)

まだ興奮冷めやらぬ公暁は実朝の首級を抱えながら食事をとり、一息ついたところで乳父の三浦義村(演:山本耕史)に使者を出しました。

「鎌倉殿の座が空席になったから、源氏の嫡男たる自分が就くことにした。早く迎えに来い」

……今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合……
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)1月27日条

これは義村の息子・駒若丸(こまわかまる。後の三浦光村)が公暁の弟弟子だったよしみもあっての事。果たして伝令を受けた義村は、実朝から受けた恩義を思い出してしばし涙にくれたと言います。

が、いつまでも泣いてはいられません。公暁に対しては「ただちにお迎えを寄越しますので、しばしお待ちください」と使者を出す一方、ただちに義時へもこのことを伝える使者を発しました。

「どうする、平六」

「阿闍梨(公暁)の武勇は並大抵ではない。ここはウチの新六に行かせよう」

そこで義村は長尾定景(ながお さだかげ。新六)に命じて力自慢の雑賀次郎(さいが じろう)ら5名を従わせ、公暁の討伐に向かわせます。

一方の公暁は義村の迎えが遅いので自分から義村の館へ向かっていたところ、長尾定景の一隊と遭遇。たちまち斬り合いとなりました。

雑賀次郎が公暁に組みかかり、上になり下になりの組んずほぐれつしている背後から、定景が公暁の首級を上げました。

鶴岡八幡宮蔵「源頼朝一代絵巻」より、義忠の背後から斬りかかる新六。

余談ながら、これはかつて石橋山の合戦で俣野五郎景久(またの ごろうかげひさ)と佐奈田余一義忠(さなだ よいちよしただ)が組みあっている際、定景が背後から義忠を討ち取ったのと同じシチュエーションです。

ともあれ公暁を討ち取った定景は、その首級を持ち帰って義村と義時に差し出します。安東次郎忠家(あんどう じろうただいえ)がよく見えるよう脂燭(しそく。灯り)をとって照らしました。

……が、義時は「公暁の顔をよく見たことがないので、本物かどうか判断しがたい(正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々)」とコメント。

だったら何で確認した?と言うよりも、恐らく「コイツが公暁か。顔は知らんけどまぁ見ておこう」くらいの感覚だったのでしょう。

終わりに

かくして父から家督を奪った実朝への仇討ち(逆恨み)は成就したものの、命を奪ったであろう義時を討ち損じてしまった公暁。享年20歳でした。

実朝を狙う公暁。豊原国周筆

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では寛一郎さんが演じる公暁(こうぎょう)。この歴史的な名シーンをどんな演技で彩ってくれるのか、今から楽しみですね!

(実朝の首を抱えながら食事をかき込むシーンは、是非とも演じて欲しいところです。あと、駒若丸との絆なんかも描いてくれると嬉しいですね)

※参考文献:

  • 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
  • 奥富敬之『吾妻鏡の謎』吉川弘文館、2009年7月
角田晶生(つのだ あきお)

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