鎌倉殿の13人

「全部アイツのせい」村上誠基が演じる稲毛重成の裏切りと末路【鎌倉殿の13人】

北条時政の娘・あきを妻に迎えた武蔵の豪族。

……NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトでは人物紹介これだけ。稲毛重成(演:村上誠基)の存在感がまぁ薄いことと言ったらありません。

劇中でも今一つパッとしない感じに加え、つまのあき(演:尾崎真花。稲毛女房)が亡くなって以降は。北条一族の存亡をかけた緊急会議にさえ呼ばれなくなっていました。

しかし鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を見ると、稲毛重成の存在感は決して小さなものではなかったことがわかります。

そこで今回は村上誠基さんが演じる稲毛重成を紹介。もし彼が再登場した時に備えて予習になれば幸いです。

武蔵の大豪族・秩父一族の一員として活躍

稲毛重成は生年不詳、武蔵国の豪族・小山田有重(おやまだ ありしげ)の長男として誕生しました。

通称は三郎。兄弟には榛谷重朝(はんがや しげとも)・田奈有朝(たな ありとも)・小山田重親(しげちか)・森行重(もり ゆきしげ)などがいます。

小山田家は秩父(ちちぶ)一族の支流で、本家の畠山重忠(演:中川大志)は従兄、房総の千葉介常胤(演:岡本信人)は義理の叔父に当たりました。

久寿2年(1155年)8月16日に勃発した秩父一族の家督争い「大蔵合戦」に参加。重成は父と一緒に畠山重能(しげよし。重忠の父)に味方します。

源義平(みなもとの よしひら。頼朝の異母長兄)と組んで大叔父に当たる秩父重隆(しげたか)と義平の叔父・源義賢(よしかた)らを滅ぼしたのでした。

ただし秩父一族の家督は重隆の孫である河越重頼(かわごえ しげより)が継承しています。

秩父氏略系図。筆者自作

※話が前後したものの、畠山重忠が生まれたのは長寛2年(1164年)なので、現時点ではまだ登場していません。

程なく都で勃発した保元の乱(保元元・1156年)そして平治の乱(平治元~永暦元・1160年)を通して有重らは平清盛(演:松平健)に従い、在京することが多くなります。

それから20年の歳月を経た治承4年(1180年)8月。伊豆国に流されていた源頼朝(演:大泉洋)が挙兵すると、重忠や重成は京都にいる父たちのことを考えて、始めは平家方につきました。

衣笠城攻めで三浦義明(みうら よしあき)を討ち取るなどしたものの、10月には秩父一族を挙げて頼朝に臣従。寿永3年(1184年)には木曽義仲(演:青木崇高)を討伐し、続いて平家討伐にも加わって武勲を重ねます。

そんな重成の『吾妻鏡』における見どころと言えば、一条忠頼(演:前原滉)の暗殺が挙げられるでしょう。

一条忠頼の暗殺

時は元暦元年(1184年)6月、甲斐源氏の嫡男である一条忠頼が武力を恃みに謀叛を企んでいるとの風聞が届きます。

さっそく忠頼を亡き者にせんと企んだ頼朝は、6月16日に御所で宴会を開き、そこへ忠頼を招待しました。

「ささ、次郎(忠頼)殿……」

お酌をするのは工藤祐経(演:坪倉由幸)。至近距離に近づいた隙を衝いて斬り殺す手筈となっていたのですが、祐経は怯んでしまって顔も真っ青。

忠頼を斬ろうと意気込んだ祐経だが……(イメージ)歌川国芳筆

ダメだこりゃ……すぐに見切りをつけた小山田有重が祐経からお銚子を取り上げ、息子たちを呼びます。

「ちょっと失礼。一条殿、せっかくの機会じゃから息子たちに給仕の作法を教えたいので、しばしおつき合い下され」

「は、はぁ」

「ほれ三郎(重成)、四郎(重朝)。よいか、お酌の時はこうしてじゃな……」

と、お酌の作法を教える隙に、有重は近くにいた天野藤内遠景(あまの とうないとおかげ)に目配せをしました。

(背後から殺れ)

(おう)

太刀をとった遠景が一刀の下に忠頼を斬り捨て、庭先に控えていた忠頼の郎党たちと斬り合いに。重成は重朝や結城七郎朝光(演:高橋侃)と力を合わせ、郎党2名を討ち取っています。

大河ドラマだとただ頼朝の面前で仁田忠常(演:高岸宏行)に斬られていましたが、作品によって違いを比べてみると面白いですね。

かくして甲斐源氏の勢力を削いだ頼朝は、東国においてその勢力をますます盤石のものとしていくのでした。

時政の命で、重忠の子・畠山重保を騙し討ち

やがて文治元年(1185年)に源義経(演:菅田将暉)が頼朝に対して叛旗を翻すと、その舅となっていた河越重頼が粛清。秩父一族の棟梁は畠山重忠が継承。従弟である重成たちの立場も高まります。

文治5年(1189年)には奥州へ逃げた義経を匿った罪により藤原泰衡(演:山本浩司)の討伐に従軍、建久元年(1190年)と同6年(1195年)の頼朝上洛に供奉するなど重用されました。

また愛妻家でもあったらしく、北条時政(演:坂東彌十郎)からもらった妻(あき。稲毛女房)の危篤を知った時は気が気でなかったとのこと。あまりに哀れと思ったか、頼朝より駿馬を拝領して飛び帰っています。

愛妻の死を悼んで出家した稲毛入道(イメージ)

最愛の妻に先立たれた重成は建久6年(1195年)7月、悲しみのあまり出家。道全(どうぜん)の法号を名乗り、以来「稲毛入道」などと呼ばれました。

建久9年(1198年)に亡き愛妻の菩提を弔う一環として相模川に橋を架けたところ、橋供養(落成記念法要)の帰り道で頼朝が落馬。それが死因の一つとなったことは有名ですね。

頼朝の死後は梶原景時(演:中村獅童)の弾劾・追放などあったものの、しばらく大人しく暮らしていた重成。しかし、元久2年(1205年)6月、舅の時政から指令が下りました。

「……六郎(重忠の子・畠山重保)を討て」

重保は前年、時政の娘婿である平賀朝雅(演:山中崇)と口論をしており、それを恨んだ時政の後室・牧の方(りく。演:宮沢りえ)が畠山一族を滅ぼすようそそのかしたのです。

気乗りはしないが、舅殿の命令だから……と重成は重保を鎌倉に誘い出し、由比ヶ浜で暗殺。実行犯には三浦義村(演:山本耕史)も加わっていました。

一方の重忠は鎌倉へ向かう道中で重保暗殺の急報に接し、自身にも北条義時(演:小栗旬)が率いる追討軍が迫ってきます。

息子の死に覚悟を決めた重忠。月岡芳年「名誉八行之内 禮 畠山重忠」

「敵は大軍、我らは少数。ここは一刻も早く本拠地に引き返して籠城しましょう!」

そうすれば各所に出張している弟たちも合流して、活路を見出せるかも知れない……郎党の進言に対して、重忠は覚悟を決めました。

「いや。武士たるもの、ひとたび家を出たなら家を忘れて肉親を忘れて戦いに果てる覚悟のあってしかるべきだ。六郎が討たれた今、いっときの命を惜しんだところで何になる。むしろ我らが謀叛を疑われてしまったことをこそ、恥じるべきではないか」

果たして大軍に包囲された重忠らは逃げも隠れもせずに力の限り戦い、ことごとく討ち取られたということです。

時に元久2年(1205年)6月22日。鎌倉武士(ひいては坂東武者)の鑑と讃えられた畠山重忠の、あまりにも潔すぎる最期でした。享年42歳。

「全部重成のせい」トカゲの尻尾切りで粛清される

しかし一族を裏切った重成が、このままで済まされるはずがありません。翌6月23日、重成は何と「讒訴により無実の畠山一族を滅ぼさせてしまった罪」によって粛清されてしまいます。

……今度合戰之起。偏在彼重成法師之謀曲。所謂右衛門權佐朝雅。於畠山次郎有遺恨之間。彼一族巧反逆之由。頻依讒申于牧御方〔遠州室〕。遠州潜被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由。就消息テ。重忠於途中逢不意之横死……

※『吾妻鏡』元久2年(1205年)7月23日条

【意訳】こたびの合戦は全部重成のせいだ。以前から平賀朝雅と畠山重忠が対立していたところ、重忠を恨んだ牧の方が時政を焚きつけ、時政が重成に相談した。すると重成は親族の絆を忘れたせいで、重忠たちは死ななければならなかったのだ。

いやいや、どう考えても時政と牧の方が悪いでしょう。もちろん重成も共犯には違いないものの、全責任をおっ被せるのはあんまり過ぎやしないでしょうか。

「ホラ見ろやっぱり潔白だったじゃないか!」時政に詰め寄る義時(イメージ)歌川国貞筆

「こたびの件は、全部あの稲毛入道が悪いのじゃ。だから許しておくれ……」

かねて重忠の討伐に反対していた義時たちをなだめる時政。重成としては亡き愛妻の縁(よすが)を感じて、泣く泣く一族を裏切ったのかも知れませんが、舅に梯子を外されてその命運も尽きたのでした。

終わりに

以上、村上誠基さんが演じた稲毛重成の生涯をごくざっくりと辿ってみました。

畠山重忠の死に深く関与する人物ですから、そう遠からず再登場も期待されるところです。

果たして重成はいかにして重忠を裏切り、そして殺されていくのか、心して見届けようと思います。

※参考文献:

  • 清水亮『畠山重忠 シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻』戎光祥出版、2012年6月
  • 清水亮『中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流』吉川弘文館、2018年10月
  • 貫達人『人物叢書 畠山重忠』吉川弘文館、1987年3月
  • 野口実『源氏と板東武士』吉川弘文館、2007年7月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
角田晶生(つのだ あきお)

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