真田幸村と伊達家の接点とは?
真田幸村は、「大坂夏の陣」で徳川家康一人に狙いを定めて本陣深く切り込み、あわやという場面まで追い込み、後に「日本一の兵」と評された武将である。
本来は幸村ではなく「信繁」と明記するほうが正しいが、ここではわかりやすく「幸村」と表記する。
家康本陣への二度の突撃はこの上なく激しく、旗印が倒され、家康は自害の覚悟もしたという。
大坂の陣では徳川が勝利。そして瀬戸際まで追い詰められた敵の血筋に対し、家康が容赦するはずがない。
幸村はそこまで予測していたのか、次男と二女の行く末を伊達家に託していた。
幸村と伊達家は大坂夏の陣の「道明寺戦」で激突している。
伊達軍の片倉小十郎(重長)隊が西軍の猛将・後藤又兵衛を討ち取った後、遅れて現れたのが真田軍だった。
勢いある真田軍に政宗は退却を指示したが、片倉隊は突撃し、大将自ら奮戦したという。
後日、家康は片倉小十郎を招き、褒美と共に「鬼の小十郎」と讃えた。
幸村は、戦闘しながらも彼の人となりを見極め、頼むに足りると確信した。
敗け戦さの先行きを感じ、秘かに使者を送り、己の子供たちの未来を任せて死んだのである。
幸村の子供たちの件は、小十郎から政宗に詳しく伝えられ、伊達家は幸村の子孫を匿うことを決定したのである。
真田幸村の遺児とは?
では伊達家が保護した幸村の子孫とは、どんな人物だったのだろうか?
一人目は、二女で側室の娘・「阿梅姫」12歳
二人目は、正室の子息・「大八」、4歳
その後、大坂城落城後の凄まじい残党狩りを搔い潜り、幸村の六女「阿昌蒲姫」も加わっている。
三人はその後、片倉小十郎の居城・白石城内で城主の身内同様に成長した。
阿梅姫は、片倉小十郎夫人・綾姫の死去後に、23~25歳頃に正式な妻となった。
20歳近くも違う年の差婚ではあるが、大切にされ、78歳の生涯を閉じた。
彼女は、真田の血を奥州で蘇らせる望みを持っていたはずである。
しかし残念ながら、阿梅姫は幸村の血を引く子を得ることは叶わなかった。
しかし大八こと真田守信は、幸村の血脈を見事引き継いだ。(※後述するが守信は大八ではなく、幸村の叔父・信尹の孫という説もある)
28歳になった守信は、二代君主・伊達忠宗に直接仕える身分に引き上げられた。
幕府の厳しい問い正しで名字は真田から片倉に変わったが、徳川吉宗時代に子孫は真田姓に復帰した。
彼の子孫は仙台真田家として現代まで続いている。
阿昌蒲姫は、陸奥国の戦国大名・田村宗顕の嫡男・田村定広と結婚した。
定広は、政宗の正室・愛姫の甥であるが、田村家は豊臣秀吉の奥州仕置きで家を潰され、片倉家を頼っていた。
定広は、政宗の乳母・片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉氏を称した。
時代に翻弄された者同士、たどり着いた場所に安心したに違いない。
何故、生き延びることが出来たのか?
幸村が子供たちを伊達家に託した理由は、他にも考えられる。
1. 家康の本拠地から遠い、伊達家の位置
2. 仙台藩の土地は、未開拓原野や鉱物資源で豊かになる可能性があった
3. 伊達政宗の実力と、人材豊富な家臣団
幸村の子は徳川からすれば「逆賊の子」である。その子を匿うには、徳川からの問い詰めをうまくかわせる知恵や機転・度胸がなければならない。
小心者には託せないし、頭が硬くても無理である。伊達家はこれに答える全てを満たしていた。
片倉小十郎は、大坂落城の際に見事に阿梅姫を救出する。そして阿昌蒲姫は負傷兵の中へ混ぜて運び、白石城へ。
そして大八に関してだが、当時の記録書・玉露叢に「真田大八は京都にて早世」という記述がある。他に、高野山蓮華定院の記録にも「石投げで死亡した」という記述がある。
そしてその死亡日は大坂の陣の前である。
つまり幸村の次男・大八は、公式には大坂の陣の前に亡くなっていたのである。
しかし実は大八は生存しており、片倉小十郎は姫たちとともに保護し、白石城にて養育したとされている。
仙台真田氏として~その後
元服後、大八は「片倉久米之介」を名乗る。
片倉家の客分として一千石待遇を受け、後に二代藩主直属の家臣となる。
その時「真田守信」と名乗ったため、幕府から真田幸村の遺児を疑う書状が届いた。幸村の遺児を匿うことは謀反に値するためである。
そこで伊達側は、高野山蓮華院の大八の死亡記録を持ち出し、守信は幕臣・真田信尹の次男の息子であると弁明した。
その後、守信は更なる疑いが掛からぬよう、片倉姓へ改名し、以後仙台藩士として生きる。
守信は監査役や主席武頭を務め、忠実に仕事をまっとうし、寛文10年(1670年)10月、59歳で生涯を閉じた。
孫にあたる片倉辰信も、棟方奉行職を務める有能な役人だったという。
正徳2年(1712年)藩命で片倉から真田へ改め、客分一千石待遇も片倉家へ返還した。
幕末の仙台真田家9代当主の真田幸歓は、西洋砲術者と知られていたが、彼は真田守信直系である。
大八=守信 否定説
ここまでは、真田幸村に頼まれた伊達家が幸村の遺児たちを匿い、幸村の次男「大八」も実は生存しており、その後「守信」となって現在も血脈は続いているといった内容であった。
しかしこれはあくまで通説であり、批判する意見も多い。
この通説は「幸村の子孫と称する人の口伝」や、昭和に発行された「仙台人名大辞書」が根拠とされているが、デタラメな講談本を元に書かれた部分が多く「大八=守信」を裏付ける証拠は何もないという。
片倉小十郎が大坂城から連れ出した遺児も実は娘一人だけであり、しかも誰の娘かもわからぬままの略奪であり、後にたまたま幸村の娘・阿梅姫だったことがわかったという。
数年後、阿梅姫は小十郎の後妻となり、その縁で妹たちも援助されたというのが真実とされている。
つまり「大八」は公式の記録どおり大坂の陣の前に亡くなっており、「守信」は幸村の叔父・信尹の孫であり、守信の血(幸村の男系)は途絶えているということになる。
これらは全て「片倉代々記」や「真田家御事蹟稿」など公式的な記録によるものである。白石市の教育委員会も「大八=守信」の従来の説を訂正している。
ただし本当に大八の生存を隠蔽するならば、公式的な記録から徹底的に隠蔽しなければ意味はなく証拠は残すはずもない。
後に幸村人気が高まって娘たちは続々大名たちに嫁いでいるが、幸村人気で大八の生存を隠蔽する必要性が薄くなったとしても、既に公式的に隠蔽してしまった後であるし男子と女子では意味合いも違うであろう。伊達家にとっても真田家にとっても「守信は信尹の孫」としておいた方が後の世も都合が良く、わざわざリスクを負うようなことをするはずもない。
そして真田家と伊達家ならば、こうした徹底的な隠蔽は十分やりそうではあるし、当時の人たちもそのまま「守信は信尹の孫」として認識していたはずである。
「大八=守信」説は歴史的なロマンはあるが、明確な史料がないのも事実である。幸村子孫の女系においては真田氏を名乗っていない子孫が今もいる可能性はある。
参考文献 : 伊達政宗と片倉小十郎
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