日本の支配体制が、従来の幕府政治・幕藩体制から、天皇を中心とした新政府に置き換わった時代が「幕末」である。
日本の歴史の転換点となったこの時代には、様々なドラマが生まれ、この時代のできごとに関心を寄せる人も多い。
なかでも、幕府勢力の残党が北海道にわたり、「蝦夷共和国」という国をつくろうとしたというエピソードは、現代からすれば非現実的に聞こえるが、歴史上の事実だ。
このとき、榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍勢力(後の蝦夷共和国勢力)は、蝦夷地に渡るにあたって当時の最新鋭艦、「開陽丸」に乗艦していた。
この記事では、旧幕府軍勢力にとっての「希望の船」であった「開陽丸」について解説しよう。
開陽丸とはどのような船だったのか?
「開陽丸」は、オランダで作られた木造フリゲートである(※フリゲートとは軍艦の艦種の一つ)
「フリゲート」という艦種が果たす戦場での役割は時代によって大きく異なり、現代では対潜・対空などの警戒任務が多い。
開陽丸が海を駆けていた当時のフリゲートは、小型かつ快速という特徴を活かして、偵察や通報、連絡中継などの補助的任務が主なものであった。
戦力としての開陽丸は、満載排水量が2,590t、汽走時の最大速力で約10ノット、各種砲門は竣工時34門、または備砲26門、後に35門ともいわれる。
開陽丸の行動~建造から大政奉還へ
開陽丸は1862年に、江戸幕府からオランダ・ロッテルダムの蒸気船会社に発注された。
この開陽丸の発注には、1853年のペリー率いるアメリカ合衆国艦隊の来航が大きな影響を与えた。
江戸幕府はアメリカ合衆国艦隊を目の当たりにして、外国海軍と比較して自らの海軍力・海防力の不足を痛感したことだろう。
無論、幕府もこれ以降出来うる限りの対策はとっており、外国から中古の軍艦を購入するなどしていたが、やはり中古の軍艦を揃えるだけでは海軍力の決定的な強化と判断するには心もとなかったのである。
このような動きの中で、1855年、鎖国下でも通商のあったオランダに対し、海軍力の強化について協力を要請することになった。
なお、オランダ国王ウィレム3世より幕府に贈呈された木造外輪コルベット「スームビング(Soembing)号」は、のちに「観光丸」として幕府軍艦・明治政府直轄軍艦となっている。
さて、発注を受けたオランダ側は当初、鉄製艦を幕府に勧めたが、幕府側では一刻も早く強力な軍艦を手に入れたいという意向があったためにこれを断り、木造・銅貼の艦として造船されることとなった。
そしてこの時、軍艦引き受けを兼ねてオランダへ派遣された留学生15名の中に、のちに開陽丸を頼りとして北海道へ渡ることとなる「榎本武揚」がいた。
榎本は建造中の艦名を付与するよう指示を受け、オランダ語で「Voorlichter(フォールリヒター=夜明け前)」を意味する「開陽」と名付けた。
開陽丸は1866年、オランダから日本への出港までの間に、デンマーク戦争を目の当たりにした榎本らによって、クルップ施条砲の追加などさらなる武装強化を施された結果、オランダ海軍大尉ディノーをして、「オランダ海軍にも開陽にまさる軍艦はない」と断言するほどの高い試験結果を残す「最新鋭艦」となったのであった。
榎本らを乗せた開陽丸は1867年4月30日、オランダ出港から実に150日の航海を経て無事に横浜へ入港したが、そのおよそ半年後、江戸幕府将軍・徳川慶喜の大政奉還が行われたのだった。
開陽丸の行動~戊辰戦争から北海道へ
徳川慶喜による大政奉還後、江戸では倒幕派の藩士らが幕臣らから戦端を開かせ、幕府側の勢力を徹底的に壊滅させようと目論んでいた。
かくして、挑発に乗った幕臣らが1868年1月19日、江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを行うという事件が生じた。
薩摩藩士は武装汽船「翔凰丸」に乗って江戸から脱出を図ったのであるが、このとき、開陽丸は逃亡する翔凰丸を追跡・砲撃した。
これが開陽丸初の実戦となった。
この時は、翔凰丸は辛うじて大阪に逃げおおせたが、1月28日に発生した「阿波沖海戦(兵庫沖海戦とも)」では、再度開陽丸と翔凰丸・春日丸との間で砲撃戦となり、開陽丸は両薩摩艦を砲撃して駆逐し、翔凰丸は座礁、春日丸は鹿児島へ逃げ延びた。
この後、榎本は徳川慶喜との謁見のために大阪で開陽丸を降りるが、その際に入れ違いで徳川慶喜が開陽丸に乗船し、江戸へ脱出してしまった。
これによって榎本が大阪に置き去りになってしまうという珍事が生じたが、榎本は富士山丸に乗船して江戸に帰還した。
4月11日には江戸城無血開城となったが、榎本は開陽丸を新政府軍に譲渡することを拒み、開陽丸を旗艦として回天丸、蟠竜丸、咸臨丸、神速丸などの軍艦・運送艦を結集して榎本艦隊を編成して品川から仙台に脱出したのである。
以降、遊撃隊や土方歳三ら新選組残党兵、旧幕府軍兵、そしてフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネらを乗せ、10月12日、蝦夷地(北海道)へ航行、松前藩を制圧した。
開陽丸の沈没
明治新政府に対抗するため結集した奥羽越列藩同盟側の勢力は各地で敗北し、最後の望みを開陽丸に託して蝦夷地へ渡った、というエピソードだけを鑑みれば、当時の榎本側の状況はかなり悲惨に思える。
しかしながら、確かに開陽丸がある限り、旧幕府軍側は少なくとも海上戦闘でのスペック的に優位であったし、陸上では箱館にある当時の新型城塞である五稜郭に大きな期待を寄せていた。
しかし、その期待が思わぬ結果を招くことになったのは、1868年11月15日のことであった。
このとき、開陽丸は松前城を奪取したうえで、江差へ進軍する味方の援護のため、江差沖にいた。
14日、江差沖から艦砲射撃を加えた開陽丸であったが、このとき江差から松前兵はすでに撤退しており、もぬけの空だった。
榎本は江差占領のため開陽丸から江差へ上陸していた。
そして15日の夜、この江差沖を猛吹雪が直撃し、錨・船体がともに押し流されて、開陽丸は座礁してしまったのである。
開陽丸では、搭載砲を一斉に発射する反動で離礁させる試みをするが失敗、救助に回天丸・神速丸が向かったが、逆に神速丸も座礁・沈没するなど被害が拡大した。
約10日後、開陽丸は江差沖に沈没していった。
榎本や土方は沈没する開陽丸を見守っていたという。
開陽丸の喪失は、明治新政府軍に対する海上の戦力優位を一気に喪失させてしまった。
無論、榎本自身の心情にとっても痛恨の極みであったろう。
なお、こののち5月に行われた箱館湾海戦では、喪失した開陽丸に代わって「回天丸」が旗艦を務めた。
回天丸とともに生き残った蟠竜丸は、新政府軍の甲鉄(のちの「東」)、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸に対して奮戦を演じた。
蟠竜丸は朝陽丸を撃沈、回天丸は80発以上も被弾しながら、最後は浮き砲台として戦い続けるなど善戦したものの、ついに5月11日の箱館総攻撃によって両艦とも戦闘能力を失った。
特に明治新政府海軍の甲鉄艦は強力な装甲を頼みとする重装甲艦であったが、榎本らはこのときすでに、甲鉄艦の装甲を貫くことができる新型砲弾を開発し、開陽丸に搭載していたという。
箱館湾海戦に開陽丸がいたならば、どのような戦いとなっていたであろうか。
引揚げ、復元された開陽丸
榎本の蝦夷共和国構想において、まさに一世一代の戦いとなった箱館湾海戦には参戦できなかった開陽丸であったが、当時の最新鋭艦として研究者の注目度は決して低くなかった。
箱館戦争直後から引き揚げ作業が行われ、大砲など数点が引き揚げられていたのであるが、時代は進み1974年、江差町教育委員会によって文献から開陽丸の沈没位置が推定され、潜水調査が行われた。
その結果、「開陽丸はすでに引き揚げがなされた」という当時の一般認識に反して、当時の艦に積載されていた大砲や弾丸、サーベルや日本刀など多くの遺留品が引き揚げられた。
また、発見された開陽丸の船体は1975年に日本初の海底遺跡として登録された。
現在、北海道檜山郡江差町には、実寸大の復元された開陽丸の展示、そして遺物の展示が行われている「開陽丸記念館」がある。
おわりに
歴史の転換点となった幕末の時代、旧幕府軍勢力は奥羽越列藩同盟を形成して明治新政府と戦火を交えた。
といっても、戦況は同盟側に利せず、各地で同盟軍は新政府軍に敗退していた。
当時の同盟側将兵にとっては、蝦夷地に自分たちの生存圏を作ることや、その地へと自分たちを運んでくれることとなる船、開陽丸はまさしく「希望の船」であっただろう。
また、蝦夷共和国を率いる榎本にとっては、開陽丸の性能があれば、海上での戦闘でたとえ「甲鉄」が現れても、新政府軍に遅れをとることはないという自負もあったのだろう。
しかし、開陽丸はその優れた能力を戦闘で十分に発揮することなく、座礁という形でその生涯を終えてしまった。
陸上では最新鋭城郭としての「五稜郭」がその性能を十分に発揮することなく落城したことと、どことなく共通するエピソードに感じる。
五稜郭・開陽丸はいずれも現在は北海道の地で、敵を迎え撃つためではなく、観光客や研究目的の人々を静かに待ち続けている。
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