実はエジプト人ではなかった!クレオパトラの出生
エジプト王朝、最後の女王として有名なクレオパトラだが、厳密にはエジプト人ではない。
ギリシア、マケドニア系の血を受け継ぎ、イランの血も少し入っていたとされている。
マケドニアのアレクサンドロス大王に征服されたエジプトは、彼の死後、その武将であったプトレマイオスを祖とするプトレマイオス王朝によって統治されていたが、強国ローマの軍事的脅威の下で滅亡寸前であった。
その状況下でクレオパトラは紀元前69年、プトレマイオス12世の娘として誕生する。
「クレオパトラ」とは王家代々継がれてきた名で、正確には「クレオパトラ7世」という。
血ぬられた一族の秘密
プトレマイオス王家は、アレクサンドロス大王の意志を継いで、当時としては驚くべき高い文化的教養を身につけていた。
アレクサンドリアという地中海の文化的首都があり、そこには数十万巻の本に恵まれた図書館があった。
有名な学者、哲学者、天文学者、数学者など、多くの英知ある人々が集まっていたという。
しかし、プトレマイオス王家はのちに血で血を洗う骨肉の争いを招くこととなる。
古代エジプトの「ある伝統」にしたがっていたからである。
近親婚だ。
王家の兄弟姉妹で結婚させ、国を共同統治することは当時、当たり前の慣習ではあったが、プトレマイオス王朝では権力争いの原因となり、親族同士で殺戮を繰り返し滅亡に追いやられることになる。
骨肉の争いの一族のなかで育ったクレオパトラは、自身も同じ道を歩んだ。
父の死後、18歳のクレオパトラが王位につき、弟で10歳のプトレマイオス13世と結婚し、父の遺言状通りに権力を共有した。(年齢は文献によってはやや差異がある)
現代の我々にはとうてい理解できないことだが、若いふたりにとっては結婚も名ばかりであった。
10歳の弟はとりまきの操り人形になり果ててクレオパトラに反発し、ついには姉であり妻でもあるクレオパトラを砂漠へ追放してしまったのである。
その後、クレオパトラはローマから来た野心家、ユリウス・カエサルを取り込んで自身の後援者とし、プトレマイオス13世はカエサルから逃れる途中、ナイル川で命を落とした。
王の死によりカエサルは、さらに弟で当時11歳のプトレマイオス14世をクレオパトラの夫としてエジプトの王位につけ、クレオパトラに実権を与えた。
二人目の夫も幼き弟であった。
ところが、クレオパトラはすでにカエサルの子どもを宿していたのである。
カエサルが暗殺されると、プトレマイオス14世も突如、死亡する。
カエサルとのあいだに生まれた息子「カエサリオン」(小さなカエサル)を政治的切り札として利用しない手はない。
亡き王プトレマイオス14世に代わってカエサリオンがプトレマイオス15世となり、たった3歳で王位についた。
事実上の実権者はもちろんクレオパトラだった。
「プトレマイオス14世はクレオパトラが殺した」とローマの史家イオセポスは記しているが、真実を示す記録は残っていない。
クレオパトラの真の素顔とは
クレオパトラは「絶世の美女」とよくいわれているが、フランスの哲学者パスカルによる『パンセ』の有名な一節がある。
「クレオパトラの鼻がもうすこし低かったら、歴史は変わっただろう」
男の心を次々ととらえたクレオパトラは、「さぞかし、すばらしい美人だったろう」という意味をこめてこの言葉を残したとされている。
その一方で、クレオパトラが「もう少し美人だったら……」という反対の意味を表しているという意見もある。
今日に残っている彼女の肖像に対する評判があまりよくないからだ。
『英雄伝』で有名なプルタルコスはこう言った。
「見る人を驚かすほどのものではなかったが、人あしらいに人をそらさない魅力があり、容姿と会話の説得力がいつしか人をとらえ、人を打った」
クレオパトラは教養の高い才女で、芸術、科学、哲学などあらゆる学問を学び、多くの言語を操った。
学の高いクレオパトラが弁舌を振るったことで、男たちが魅了されたことは想像に容易い。
権威者であるユリウス・カエサル、マリウス・アントニウスをその色香で手玉にとったと、ローマではすこぶる評判が悪く、「娼婦女王」「ナイルの魔女」などローマ市民は言いたい放題だったという。
画像 : 1963年の映画『クレオパトラ』より、エリザベス・テイラー(クレオパトラ7世)とリチャード・バートン(アントニウス) public domainしかし、プトレマイオス王朝の女王として、クレオパトラは強国ローマの前で必死にもがき、生きる術を模索した。
「あふれる知性を身にまとい、女の武器を最大限に利用することでしか自国を強国ローマから守ることはできない」と考え戦い抜いたのだ。
ローマの協力を得て自国を守り抜こうとした政治家であり、優れた統治者ともいえよう。
自国滅亡という悲劇で終幕するが、女ひとりで背負うには重すぎた帝国であった。
参考文献 :
『国を傾けた女たちの手くだ』(森下賢一著 白水社)
『古代エジプト女王・王妃歴代誌』 (ジョイス・ティルディスレイ監修 吉村作治/訳者 月森左知 創元社)
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