鎌倉殿の13人

矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか? 「三浦氏の血を存続させた北条泰時夫人(初)」

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時の息子・泰時夫人(初)は、夫より賢く、洞察力がある女性として登場している。

泰時も初には頭が上がらず、色んな事を相談している。

彼女は後に「矢部禅尼 : やべぜんに」として知られる人物となるのである。

矢部禅尼とは、どんな人物?

相模国(神奈川県大部分)の有力御家人・三浦義村を父とする彼女は、源頼朝の意向により、後に三代執権となる北条泰時と1202年(建仁2年)婚姻する。

矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか?

画像 : 月岡芳年「大日本名将鑑 北条泰時」

翌年、長子・時氏を儲けているが、泰時とはその後、離縁している。
理由は不明だが、北条と三浦両家の政治事情が絡んでいたと思われる。

離縁後、三浦一族の支流・佐原盛連(さはら もりつら)と再婚し、盛連との間に、光盛・盛時・時連の息子3人を得る。

しかし盛連は、1226年(嘉禄2年)京都で酔って傷害事件を起こす。
さらに宇治(京都府宇治市)まで出向いて乱暴を働き、朝廷からも叱責される。
その後、諸国を彷徨い、1233年(天福元年)、京都へ入り込もうとして殺害されてしまったのである。

彼女は夫の非業の死を弔うためか、盛連の死後、三浦矢部郷(神奈川県横須賀市)に戻って出家する。

そして「矢部禅尼 : やべぜんに」と名乗ったのである。

1237年(嘉禎3年)彼女は幕府から、亡き夫・盛連の領地・和泉国吉井郷を与えられた。
三浦矢部郷へ知らせる下文(申渡書)は、北条時頼(時氏の息子で矢部禅尼の孫)が使者に立っている。
こうした配慮は、かつて夫婦だった北条泰時が配慮したと考えられる。

しかし泰時の死後、人生最大の試練が、彼女を待っていた。

1247年(宝治元年)の「宝治合戦」である。

源頼朝の時代からの有力御家人である三浦氏と、執権北条氏との争いが起こったのである。
三浦一族長の泰村(矢部禅尼の兄)と5代執権・北条時頼は、対立回避を模索した。

しかし、執権側の有力御家人で外戚の安達氏が先に仕掛け、三浦邸付近に火を掛ける。
三浦氏側は、頼朝の法華堂に籠って執権軍と三刻(45分)戦ったが、総勢500人余りが自害し、戦は終了する。

「宝治合戦」では、三浦支流・佐原氏も宗家側で戦ったが、矢部禅尼と息子3人(光盛・盛時・時連)は執権側についた。

矢部禅尼の意向が息子達を動かし、三浦一族の血統を存続させたと伝えられる。

1256年(建長8年)彼女は食欲が失せる病となり、70歳で生涯を終えた。

矢部禅尼の子孫たちとは?

矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか?

画像 : 北条時氏像

矢部禅尼の子孫には、どんな人物がいたのだろうか?

最初の婚姻から見てみよう。

まず、1203年(建仁3年)北条泰時との間に男子一人を授かっている。

名前は「北条時氏」。

後鳥羽上皇の北条義時追討令に端を発した「承久の乱」では、父・泰時と共に出陣し、宇治川合戦にも参戦している。
時氏は、六波羅探題(鎌倉幕府京都出先機関)内で役職を担い、早くから4代執権と目されたが、28歳で病死してしまう。

そして時氏の息子たちが、4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼である。
因みに時頼の子孫は、14代執権・北条高塒まで続いている。

では、佐原盛連(さはらもりつら)との再婚で出来た息子たち(光盛・盛時・時連)はどうなったのであろうか?

3人の息子のうち、光盛は蘆名姓を名乗り、子孫は福島県会津地方を中心とする戦国大名へと成長している。

盛時は「宝治合戦」後に三浦姓を名乗り、三浦氏を再興することが許され、正式に鎌倉幕府より一族長と認められた。
室町時代は相模国(神奈川県ほぼ全域)守護として任命され、その一族は北条早雲に滅ぼされるまで相模国の有力豪族として勢力を保った。

後に新宮氏を名乗る時連は、鎌倉幕府より新宮庄(現・福島県喜多方市)地頭職を任ぜられ、新宮城を築城。以後200年同地方一帯を支配した。

室町時代には、かつての同族・蘆名氏と戦ったが、敗れて越後国(新潟県)に逃げ、滅亡した。

矢部禅尼が果たした役割とは?

矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか?

「宝治合戦」で三浦氏が族滅する危機を救ったのは、矢部禅尼だった。

発端は「三浦一族が近々謀反により討伐される」と書かれた謎の立札であった。
多くの有力御家人の末路を見届け、三浦義村という策士を父に持つ矢部禅尼は、これを幕府側の挑発と捉えたハズだ。

もちろん、一族を束ねる族長・三浦泰村も同様に考え、挑発に乗らぬよう抑えていた。

しかし幕府側では、頼朝の側近だった安達景盛が三浦氏打倒を先導した。
4代・5代執権の外戚だった安達氏は、時を逃さずとばかり追い落としに掛かる。

一方、泰村の弟・光村は「北条氏を滅ぼし、三浦が幕政を握る」と野心満々であった。
源実朝亡き後、京都から迎えた公卿将軍・藤原頼経が追放された後も、再び鎌倉へ迎えようと画策していた。

執権派(北条氏・外戚安達氏等)と将軍・藤原頼経派(三浦氏ら側近)の、長年に渡る二つの勢力対立も背景にあったのである。

こうした状況下、矢部禅尼は孫の北条時頼と三浦一族との間に立ち、苦悩したと予想される。
そして三浦館を攻め、三浦氏を滅ぼす事は、伝えられた可能性がある。

佐原一族のほとんどが三浦側に組みする中、彼女は幕府の味方をするよう息子たちに要請する。
一族と違う道を選択する者は、当然「裏切り者」と呼ばれたはずだ。

だが、彼女は三浦の名を後世に残す事を選んだ。

父・三浦義村が「友を食らう犬」と罵られても生き残る道を選んだように、血を繋ぐには強い信念がなくてはならない。

彼女は、父に劣らぬ決断をやってのけたのである。

さいごに

北条泰時と離縁した時から、矢部禅尼の試練が始まった。

酒乱持ちの夫・佐原盛連との婚姻は、平穏とは言い難いモノだったかもしれぬ。
盛連も、3代執権の元妻で三浦宗家の娘である彼女を持て余していたのかもしれない。

当時、御家人や武士は京都での上番(軍隊等で勤務に就く)があり、盛連はそこで傷害事件を起こし、朝廷より咎められた。
その後の数年に渡る諸国放浪で自暴自棄になり、京都入りを強行し殺害される。

それから彼女は、夫を弔うと共に息子達と孫達の繁栄を願う生活に入った。
血を継ぐ息子「北条時氏」が28歳で若死した痛みを乗り越え、頼りにする前夫・泰時の死を見送った。

そして矢部禅尼の選択が三浦氏を再び世に出す。
時代が下った先で、矢部禅尼の子孫が戦国大名・相模三浦氏として名を挙げる。

矢部禅尼が願った三浦を繋ぐ決意は、ここに凝集したのである。

参考図書
日本の歴史09「頼朝の天下草創」山本幸司 著

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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