英一蝶とは
江戸時代の初期、5代将軍・徳川綱吉の治世では「元禄文化」と呼ばれる様々な芸術文化が花開いた。
英一蝶(はなぶさいっちょう)は、そんな時代が生んだとんでもない芸術家であり、吉原で一番有名な幇間(ほうかん:太鼓持ち)であった。
英一蝶、何とも美しい名前を持ったこの男は、絵師(画家)・俳人・書道家など多彩な芸術家であり、吉原で人気の幇間として大名や豪商に毎晩のように酒宴に呼ばれ、その芸や会話の面白さで落語家の元祖とも言われた。
しかし、その振る舞いが目に余るものがあったのか、将軍の実母・桂昌院の怒りに触れ島流しの刑となり、流罪先の三宅島で12年間を過ごした。
その後、大赦で江戸に戻ると風俗を描く人気絵師として復活し、豪商の奈良屋茂左衛門や紀伊國屋文左衛門の幇間として交遊を楽しんだ。
今回は、元禄時代を代表する波乱万丈な芸術家・英一蝶の、やりたい放題の生涯について解説する。
出自
英一蝶は、承応元年(1652年)伊勢亀山藩の侍医(藩お抱えの国許の医師)・多賀伯庵の子として京都で生まれる。
諱は「安雄(やすかつ)」、後に「信香(のぶか)」、字は「君受(くんじゅ)」、幼名は「猪三郎(いさぶろう)」、「次右衛門(じえもん)」、「助之進(すけのしん)」、「助之丞(すけのじょう)」である。
剃髪後は「多賀朝湖(たがちょうこ)」、「狂雲堂(きょううんどう)」、「夕寥(せきりょう)」、このように多くの名を使っていて、画号も多くの名を使っていた。
英一蝶(はなぶさいっちょう)という美しい名を使うようになったのは晩年からで、画号も晩年から「北窓翁(ほくそうおう)」とした。ここでは一般的に知られる「一蝶」と記させていただく。
一蝶が15歳(※8歳とも)の頃、父が藩主・石川憲之に付き従って江戸詰めが決まり、一家で江戸に出ることになる。
父・伯庵は自分と同じ医師の道に進むことを望んでいたが、絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命で将軍家の御用絵師・狩野派の狩野安信に入門した。しかし何が原因かは分からないがわずか2年で破門されてしまった。
※一説には、一蝶は狩野派の画風よりも風俗画を代表する岩佐又兵衛や菱川師宣に刺激を受けたためとも。
絵師・俳人・書道家として
破門後、一蝶は「多賀朝湖」という名で狩野派風の町絵師として活躍する一方、「暁雲(ぎょううん)」の号で俳諧に親しみ、俳人・松尾芭蕉とその高弟・宝井其角(たからいきかく)と交友を持つようになり、書道を玄竜門下の元で学ぶ。
絵師としてよりも俳諧師としての名声の方が高く、宝井其角とは親友となり、その名を江戸中に知られるようになった。
人脈作りがうまかった一蝶は、江戸の町人、豪商、旗本、あるいは諸大名らと広く親交を持つようになる。
版画の作品は無かったが、風俗画を代表する岩佐又兵衛や菱川師宣の2人をライバル視し、彼らを超える新しい都市風俗画を目指した。
水面や障子に映る影を描くという新しい表現にも挑戦し、洒落っ気に富んだ作品を数多く残し人気の絵師となった。
人気の幇間
また、前述したとおり一蝶は吉原遊郭通いを好み、客として楽しむ一方で、自ら幇間(ほうかん:太鼓持ち)としても活動をしていた。
一蝶の話術やお座敷芸はとても面白く、「和応(わおう)」という通名で活動していた。豪商や旗本、大大名すらもついつい財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事で愉快な芸の持ち主であったという。
豪商として有名な奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門らからも、とても重宝されたという。
交友関係は幅広く、俳諧の有名人の他に文化人・趣味人・後援者ら以外にも、漆芸家・金属工芸家らとも交流があった。
入牢・釈放・島流し
元禄6年(1693年)一蝶は罪を得て逮捕され、入牢した。
理由は不明で2か月後に釈放されるが、当時の幕府は元禄文化の過剰な華やかさ、風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀粛正を試みようとしていた感がある。
この年に「大名及び旗本が吉原遊郭に出入りし遊ぶこと」を禁じていることから、目立っていた一蝶は見せしめ的な意味もあり入牢したとも言われている。
実は罪になった理由については諸説ある。
(1)「当世百人一首」で将軍・綱吉の政道を批判した。
(2)「朝妻舟図」で綱吉の側室・お伝の方を白拍子(遊女)に見立て揶揄した。
(3)綱吉の生母・桂昌院の甥である本庄資俊らを吉原に誘い、遊女を見受けさせた。
(4)「馬がもの言う(予言する)」という流言を飛ばし、綱吉の「生類憐みの令」を批判した。
この4つの中でも(3)(4)が有力とされている。
桂昌院は元々八百屋の娘であったため、3代将軍・家光の側室となる時に二条関白家の本庄宗正の養女として大奥に入り、綱吉を生んだ。
桂昌院の異父弟・本庄宗資は桂昌院によって綱吉に引き立てられ、幕府の御家人を経て常陸国笠間藩主となり、その次男・本庄資俊が笠間藩主を継いだ。
しかし本庄資俊が吉原の遊女・大蔵に惚れてしまい、吉原通いに入れあげ、なんと1,000両という大金で大蔵を見請けさせたのである。
この件には一蝶も絡んでいた。
しかも、本庄資俊だけでなく桂昌院ゆかりの旗本・六角広治にも木幡という遊女を見請けさせていたのである。
このことを耳にした桂昌院は「親類縁者を遊女狂いさせる奴らを遠島にして欲しい」と江戸町奉行に訴えたのである。
しかし遊女を見請けさせたことだけでは罪に問えず、(4)の「生類憐みの令を批判する者」として罪をなすりつけ入牢させたと考えられる。
そもそもでっち上げの罪だったので一蝶は詮議もなく、結局「病気養生」という名目で2か月で釈放された。
釈放となった一蝶だが、その5年後の元禄11年(1698年)今度は三宅島へ流罪となってしまう。
釈放は今で言う執行猶予であり、本来ならば謹慎しなければいけなかったが、吉原に出かけた帰りに検挙され、入牢のうえ今度は島流しとなったのである。
理由は「病気養生のために出牢させたのに、遊郭へ行ったのはお上を軽んじる不届きな所行」ということだった。
流刑地にて
島流しの罪人には、親族から年に数度の仕送り(物品)が許され、一蝶は毎度のように画材を要求したという。
一蝶は江戸で自分を贔屓にしてくれる人々や、島で自分に便宜を図ってくれる人のため、江戸に残した家族(母)の家計のために絵を描き続けた。
乏しい画材を駆使しての創作活動だったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたり、多数の縁起絵などが残されている。
一蝶はいつも江戸の方角(北)を向いて創作活動をしたため、そこから「北窓翁」の画号が生まれたという。
この頃の作品群は一蝶の代表作の一部として知られ、この時期に描いた作品を「島一蝶」と呼ぶ。
絵を売った収入で居宅を購入し「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりある暮らしをしていたというのだから驚きである。
世話をしてくれた名主の娘との間に子も成し、「朝清水記」という随筆も島で書いている。
江戸に戻る
宝永6年(1709年)将軍・綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって一蝶は流罪を許され、12年振りに江戸に戻ることになった。
この頃から「英一蝶」と名乗るが、それは江戸に戻る船の中で一匹の蝶を見つけたからで、姓の「英(はなぶさ)」は母の姓だった「花房」から取ったという。
江戸深川の宜雲寺に住み、風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。
相変わらず吉原通いも続け、奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門らとも交遊が続いたため、彼の名声は江戸に戻ってからますます高くなった。
享保9年(1724年)1月13日に死去、享年73であった。
おわりに
英一蝶は絵画・俳諧・幇間として元禄文化を代表するマルチな芸術家で、時代の寵児として波乱万丈な生涯を送った人物だ。
太鼓持ちとして豪商や諸大名らに可愛がられ、絵師として数多くの作品を残し、島流し先で「家持ち流人」として商いまでしたというのだから、人間的によほど魅力のある人物だったのだろう。
まさに人に好かれる術を持つ「あっぱれ!」という人生を謳歌した異端児だと言える。
英一蝶は、綱吉時代のTV時代劇で吉原で太鼓持ちとして必ず登場する人物で、気になっていた。
落語家の元祖よりは実は多彩で絵画や俳句の名人でしかも話芸に長けていた。才能多き芸人みたいな人だったのですね。