蔦屋重三郎とは
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)とは、江戸時代中期から後期にかけて活躍した版元(出版人)で、今で言う敏腕プロデューサーであり、超一流の文化人として知られる人物である。
書店の店主から売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに、以前から付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集めた。
そして今までにはなかった斬新的な企画を統括し、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々と刊行した。
浮世絵では喜多川歌麿・東洲斎写楽・栄松斎長喜を育て上げて世に広め、鳥居清長・歌川広重・渓斎英泉らの錦絵を出版した。
重三郎は面倒見がよく、人の才能を見抜く術を心得ていたと言われ、写楽を始め曲亭馬琴や十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は多い。
現在の書店やレンタルビデオ店の大手「TUTAYA」は、蔦屋重三郎の功績にあやかって名付けられたことでも知られている。
今回は、歌麿や写楽らを世に出した敏腕プロデューサーで版元・蔦屋重三郎の生涯について解説する。
出自
蔦屋重三郎は、寛延3年(1750年)江戸吉原の遊郭の勤め人だった「丸山」という姓の人物の子として吉原遊郭で生まれた。
その後、重三郎は吉原の茶屋で「蔦屋」という屋号で店をやっていた喜多川氏の養子となった。
茶屋の蔦屋は「耕書堂」とも号していた。
吉原は人々を非日常へと誘う魅力的な場所であり、流行の発信地でもあった。
しかし各所に競合が登場し、高級志向の吉原遊郭の人気は次第に翳りが見え始めた。
そこで安永2年(1773年)に重三郎は、吉原の大門の前に小さな本屋(おそらくは貸本屋)を開業した。
初めは義兄の茶屋の軒先を間借りした、ごくごく小さな本屋であったという。
転機
重三郎に転機が訪れるたは、24歳の時だった。
吉原のガイドブックである「吉原細見(よしわらさいけん)」の編集者に、重三郎が抜擢されたのである。
「吉原細見」とは、どの店にどんな遊女がいるのかを記した案内書のようなものである。
当然、掲載されている情報が有用で魅力的でなければ、人々の足は吉原から遠のいてしまう。
重三郎は、吉原の活性化に重要な役割を果たす出版物の編纂を担うことになったのである。
重三郎はまず「吉原細見」の序文の執筆者に平賀源内を起用したことで、世間から多くの注目を集めることに成功した。
更に重三郎は、吉原の遊女たちを様々な花に見立てた美麗な本の出版に携わった。
この作画を担当したのが、当時の売れっ子絵師・北尾重政である。
一部の遊女屋をスポンサーとして制作されたこの本は、各店の上顧客たちへの贈答品として扱われ、吉原通の証となったという。
この吉原関連の出版物に関わり、その中心人物となった重三郎は「吉原文化発信プロジェクトの戦略部長」として活躍しながら、「青楼美人合姿鏡」を出版、絵師には北尾重政と勝川春章を起用し事業を拡大していった。
「吉原細見」の版元となった重三郎は、読者のニーズに合わせた形式と価格を改訂していった。
安永3年(1714年)に遊女評判記「一目千本」、翌安永4年(1715年)年には「吉原細見の蘺の花」を出版。
そして書店兼版元となった「耕書堂」の主として、様々なジャンルの本の出版と販売を手がけるようになったのである。
名プロデューサー
安永9年(1780年)重三郎は、当時の売れっ子作家で狂歌師でもある朋誠堂喜三二の黄表紙(きびょうし)を出版したのを手始めに、本格的に出版業に進出していく。
黄表紙とは、今で言う大人向けの絵入り小説のことである。さらに重三郎は往来物(教育書)も出版した。
翌年、当時の流行の最先端であった狂歌の世界に身を投じ、かつてから親交のあった狂歌師や絵師たちを集め、狂歌本や黄表紙で大ベストセラーを連発する。
戯作者の第一人者である山東京伝と独占契約を結び、戯作の一種である洒落本の大ヒット作も多く生みだした。
洒落本とは遊郭での遊びについて書かれたもので、粋を理想とし遊女と客の駆け引きなどが描写され、遊郭遊びの指南本ともなった。
重三郎は、黄表紙や洒落本を出版する傍らで、武士・町人などの身分を超えた知のサロンを作り、そこで多くの人脈を形成する。
天明3年(1783年)に地本問屋の丸屋小兵衛の株を買い取り、一流版元が集まる日本橋通油町に進出し、一流版元として肩を並べることとなった。
その後も洒落本・黄表紙・狂歌本・錦絵・絵本を出版し、大ヒット作を世に出し続けたのである。
浮世絵の天才たちを世に出す
浮世絵版画は、絵師・彫師・摺師の三者の共同制作によって出来上がる。
その企画から制作、販売までをトータルでプロデュースしていたのが、現在の出版社にあたる「版元(はんもと)」であった。
重三郎が活躍した天明・寛政期は「浮世絵の黄金期」と呼ばれた時代であった。
この浮世絵の黄金期に、重三郎は2人の天才浮世絵師を世に送り出した。
一人目の天才は喜多川歌麿である。
彼の才能を見出した重三郎は、美人画の世界に「大首絵(おおくびえ)」という新たなジャンルを確立し、今までに無かった作風は空前の大ヒットとなった。(※大首絵とは、歌舞伎役者や遊女などを半身像や胸像として捉えて描いた浮世絵版画)
もう一人の天才は東洲斎写楽である。
写楽の才能を見出し、デビュー作品として役者絵に「大首絵」を用いた今までになかった作品を出版し、江戸っ子の度肝を抜いたのである。
更に鳥居清長・歌川広重・渓斎英泉らの錦絵を出版し、大ヒットさせる。
まさに現代で言う「敏腕プロデューサー兼版元」として重三郎は絶頂期にあった。
松平定信による弾圧
しかし自由な気風を押し進めていた老中・田沼意次が失脚し、天明7年(1787年)代わりに老中となった松平定信による「寛政の改革」が始まった。
「寛政の改革」によって、娯楽を含む風紀の取り締まりが厳しくなり、出版規制が行われたのである。
江戸は倹約ムードに包まれ、吉原も不況となり、人気作家の太田南畝が狂歌から撤退、武士作家らが次々と戯作から撤退してしまう。
寛政3年(1791年)には、山東京伝の洒落本・黄表紙「仕懸文庫」「錦の裏」「娼妓絹籭」が幕府に摘発される。
山東京伝は手鎖50日で自宅軟禁という罪になり、版元である重三郎はなんと過料として全財産の半分を没収されてしまったのである。
浮世絵師の喜多川歌麿は美人画に女性の名前を書くことを禁止され、それに反発し「判じ絵」という手法を用いて幕府の規制に対抗した。しかし歌麿も50日の手鎖で自宅軟禁の罪となってしまう。
そこで重三郎は、新たに歌舞伎の興行権を持った控櫓の都座・桐座・河原崎座に対して役者絵の版元となるべく動き、見事役者絵の新興版元の座を獲得する。
そこで出版したのが東洲斎写楽の「役者の大首絵」大判28枚であった。
謎の浮世絵師 写楽
それまで役者絵は、どんな場面でどんな役を演じているか分かるように「背景や全身像、着ている着物や恰好」などが描かれていた。
しかし写楽の大判28枚の「役者の大首絵」は、背景を描かずに役者の顔の特徴をデフォルメして描かれたものであった。
写楽と重三郎の斬新的なアイデア作品は江戸っ子たちの度肝を抜いたが、歌舞伎役者には「贔屓」と呼ばれる今で言うスポンサーやファンが多くいた。
デフォルメされた大首絵は評判が悪く、センセーショナルな写楽のデビュー作は余り売れなかった。
写楽は、2作目以降は全身絵も取り入れ、役者の顔のデフォルメも描いたが、たった10か月の間に140~160枚余りの浮世絵を世に出した後、謎を残したまま忽然と姿を消した。
数々の大ベストセラー作品を出版した敏腕プロデューサーの重三郎も、寛政9年(1797年)脚気によって47歳の若さで亡くなってしまう。
2代目として番頭だった勇助が継いだが、幕府の取り締まりはその後も厳しい状態が続いた。
しかし処罰されながらも「耕書堂」は5代・明治初期まで続いたという。
おわりに
蔦屋重三郎はとても面倒見がよく、人の才能を見抜く術に長けていた人物であった。
東洲斎写楽・曲亭馬琴・十返舎一九など、重三郎の世話を受けた文化人(芸術家)は大勢いたという。
レンタルビデオや音楽ソフト・書籍等の販売を行う大手チェーン店「TUTAYA」は、その名前の由来として創業者である増田宗昭の祖父が営んでいた屋号が「蔦屋」であったことや、「蔦屋重三郎」にあやかって名付けたことを公表している。
参考文献 : 稀代の本屋 蔦屋重三郎
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