中世では家族を持てない僧侶達が、家族に等しい役割を稚児(ちご : 髪をそり落とさない修行中の少年僧)に求めた。
中世の僧侶と稚児とは、どんな関係だったのか。
寺院における稚児とは
平安期の大寺院(真言宗・天台宗など)では、12~18歳頃の髪をそり落とさない少年修行僧の姿が見られ「稚児 : ちご」と呼ばれた。
稚児には3つに分類される。
1. 上稚児
2. 中稚児
3. 下稚児
1は、身分が高い皇族や貴族の子息が寺に預けられ、教養や礼儀作法を習うための者を指す。
2は、僧侶の世話を主とする気の利いた利発な少年僧を意味し、3は、楽器や舞など優れた芸の持ち主が悪徳僧から売られ、僧侶を慰める役目を負った者を意味する。
寺院において上稚児とは大切な預り者、云わばお客さんなので、ここでは中稚児と下稚児を念頭に進めていきたい。
稚児は後ろに髪を一括りにしたり、二つに分けて輪状に結ぶ姿で化粧を施し、色鮮やかな水干(男性用平安装束)を着て、師と仰ぐ僧侶の身辺世話係を勤めた。
老僧の場合は介護も兼ねていた。
大寺院は、大抵人里離れた場所にあり女人禁制なので、師である僧侶と世話係の稚児は男色関係に至る場合もあった。
鎌倉から江戸期にまとめられた「お伽草子」では、稚児モノの分野があり、観音菩薩化身の稚児と僧侶の恋愛物語まで存在する。
「稚児観音縁起絵巻」から見える関係性
室町時代に成立された「稚児観音縁起絵巻」は、興福寺菩提院「十一面観音」のご利益を語るだけでなく、当時の僧侶と稚児の関係を後世に伝えている。
内容は以下の通りである。
奈良長谷寺近辺に、60歳を超えた高僧が一人住まいをしていた。
3年3月の間、長谷寺に弟子を与えてくれるようにお参りしたが、願いが叶わなかった。
高僧は「前世の行いから来る報いのため願いは叶わなかった」と酷く落ち込み、家路を辿る。途中、とある山の麓で横笛を吹く14、15歳の稚児と出会う。
少年は、東大寺付近に住んでいたが「師匠の僧に叱られて飛び出してしまった」と語る。
そのため、高僧に自分を中稚児(僧侶の身辺世話係)にして欲しいと頼む。
高僧は、彼の申し出を喜んで受け入れ、二人は一緒に暮すようになった。彼は詩歌や音芸に優れ、高僧は観音様のごりやくだと感じ、有難く幸せに過ごしていた。
しかし3年後、稚児は病気で亡くなってしまう。
遺言により土葬・火葬も無しで棺に入れたまま、位牌安置堂に置く。「35日過ぎたら開けて欲しい」という頼み通りに高僧が棺を開けると、金色の十一面観音が現れた。稚児は十一面観音様の化身だったのある。
高僧は、身の回りを世話してくれ、味気ない独り身生活に潤いを与えてくれる稚児の姿や笛に慰められていたのだろう。
稚児観音縁起絵巻は、世俗世界からはみ出た孤独な老人と寄る辺ない少年、孤独な二人の絆を描いた物語でもある。
大僧正と呼ばれた人々の稚児に寄せる情愛
大僧正と呼ばれる人々でさえ、稚児を家族、或いは伴侶のように寵愛して頼りにしていた。
鎌倉前期~中期の東大寺僧・宗性(そうしょう)は、華厳宗(中国大乗仏教の1宗派)の生き字引的存在だったが、74歳の高齢で奈良から京都南部の寺に移り住んだ。
移住先で籠り、専ら書物に注釈を加える作業を行った。
宗性が注釈を加えた書物のあとがきには、長年一緒に暮した稚児・力命丸が罪もなく殺されたので、悲しみにくれて奈良を離れ、京都南部へ移り供養を行ったと何度も記述している。
室町時代から戦国時代を生きた奈良興福寺の僧・尋尊(じんそん)も、稚児を寵愛した。
彼は、後に興福寺別当(寺業務総括)や大乗院門跡(大寺院の住職)まで勤めた人物であるが、蚊帳の中で幾度も稚児と関係を持っていたと、暴露した者がいる。
音や声を聞いたか場面を目撃した人物が、思い出して手紙に書いているのである。
「大乗院寺社雑事記紙背文書」にその記述が残っている。
大乗院寺社雑事記は反故文書裏を再利用しているので、別文書も読めてしまい、尋尊が稚児と寝所を共にしたと書かれた手紙が見つかったという訳である。
この手紙は、当時こうした関係が珍しい事では無かった雰囲気を伝えている。
僧侶が稚児に果たすべき役割
鎌倉時代、浄土宗や浄土真宗、時宗、法華宗、臨済宗、曹洞宗が生まれ、旧仏教は排除や弾圧を加えた。
しかし旧仏教の中にも革新的な動きをした人物もいる。真言律宗を盛んにした叡尊(えいそん)もその一人である。
奈良時代に七大寺に数えられたが、平安時代に衰退した西大寺を復活した人物としても知られている。
彼は学僧の父の元に生まれたが、母を亡くし7歳で養子になった。
養親の死後、11歳で京都醍醐寺で阿闍梨(指導者の称号)・叡賢の稚児になった。
叡尊は、叡賢の住まいで亡くなった人々に花や焼香を捧げ、供養する仕事を行っていたが、14歳で叡賢の下を離れた。
そして同じ醍醐寺内で山上から山麓に移り、栄実の稚児となる。
栄実に気に入られ、引き立てられたせいか、叡尊は17歳まで稚児の役割を果たした。
その後、醍醐寺の山上に住まう恵躁の下に移り、恵躁を師として出家する。
稚児時代の叡尊が、仕える師を三人替えた理由は何だろうか?
後に大成する彼は、学問を極めるため、相応しい師を求めていたと考えられる。
師が、それに答えられる才能や徳を持ち合わせていなかったら、去る稚児を見送るしかないという暗黙の了解があったのだ。
僧が稚児を傍らに置くことは、弟子を取るという意味があり、弟子の求める知識教養・品格も求められたのである。
終わりに
僧侶と稚児が特別な関係で結ばれていた事を示す例は、和歌にもある。
「七十一番職人歌合」の山法師(比叡山延暦寺僧兵)は、侘しく冷たい一人寝を辛く想い、稚児を恋しく思う歌を詠んでいる。
荒々しく戦場を駆け抜ける僧兵にさえ、人がましい情緒を抱かせる存在だったのである。
稚児とは18歳位までの呼び名であり、それ以降は俗世へ帰るか僧になるかである。
僧侶は稚児が成人するまでの間、共に暮してもその期間は十年にも満たない。
世話を受ける老僧にせよ、明日をも知れぬ命である。
期間限定だからこそ、熱き結びつきが生まれたのかもしれない。
参考図書
日本の中世4「女人、老人、子ども」
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