たばこの伝来
世界中にたばこが広まったのは、1492年にコロンブスが新大陸(アメリカ大陸)に上陸したことがきっかけであった。
そして原住民からたばこを貰ったことで喫煙の習慣がスペインへ伝えられ、その後ヨーロッパ各地へと広がった。
日本へたばこが伝わった正確な年代はわかっておらず、天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲と共に伝えたという説など諸説ある。
日本で初めてたばこの種子を受け取ったのは、江戸幕府を開いた徳川家康である。慶長6年(1601年)にスペインのフランシスコ会の修道士ヘロニモ・デ・ヘススが家康に謁見し、その際にたばこの種子とたばこを原料とする薬も献上したとされ、その後国内でもたばこの栽培が行われるようになっていった。
スペインの修道士ブルギーリョスの報告書や八条宮智仁親王の「煙草説」にある記録から、慶長年間(1596〜1615年)にはたばこの喫煙、耕作も伝わっていたとされる。
幕府による たばこの禁止
庶民の間で喫煙の習慣が広がり始めた中で、幕府は「たばこに関する禁止令」を幾度も出した。たばこの喫煙、売買、栽培も禁止とし、もし売買が見つかれば財産を没収されるなどの罰則もあった。
〔幕府がたばこを禁止した理由〕
・たばこが原因の火災
江戸は火事が多く建物も木造建築なだけに火の回りも早く大火災に繋がった。そのため幕府は火災の原因となるたばこの火も取り締まりの対象とした。
江戸中期に発生したある火事の原因が1人の女性のくわえ煙管の不始末によるものだと分かると、その後その女性は火あぶりの刑に処せられた。それほど厳しく、また江戸城内も禁煙とされていた。
しかし最初は全面禁煙だったものの4代将軍・家綱の時代に緩和され、城内で場所を限定して可能となった。
・反社会的集団への統制
江戸初期に奇抜な格好で徒党を組み、人々に乱暴狼藉をする反社会的集団「かぶき者」が江戸などの都市部に現れた。
珍しいものを好むかぶき者は、南蛮渡来のたばこも好み徒党のシンボルとした。またその喫煙道具である煙管(きせる)も従来よりも巨大なものにし、喧嘩の武器とした。
幕府はこのかぶき者の統制のため、徒党のシンボルであるたばこも取り締まりの対象としたのだった。
・年貢米の確保
喫煙の習慣が広まるにつれ、農家では利益が大きいたばこの栽培を始める農家が増加した。これにより幕府は年貢米の確保に危機感を覚え、農家のたばこの栽培を禁止したのである。
初代将軍・家康から3代将軍・家光までの時代間には幾度も禁止令が出された。一説によると「煙管狩り」が行われ、没収された煙管が日本橋の側にあった煙管捨て場に山のように積まれていたという。
しかし幾度と禁止されるもたばこの人気は衰えず、たばこを楽しむ人々は増え続け、寛永年間(1624〜1644年)にはたばこに課税して収入を得る藩も現れ、たばこの耕作が広まっていった。
やがて禁止令は形骸化し、元禄年間(1688〜1704年)頃を境に新たなお触れは出され無くなり、たばこは庶民を中心に親しまれ独自の文化をつくっていくこととなる。
日本の技術「細刻みたばこ」
現在のたばこの喫煙スタイルは紙たばこや電子たばこなどがあるが、江戸時代では「煙管で刻みたばこを喫う」というものであった。
喫煙の習慣が広がり始めていた頃、喫煙者は買ってきた葉たばこを自分で刻んでいた。刻んだ葉たばこを煙管で喫うというスタイルは他のアジア諸国でも見られたが、日本では葉たばこを細く刻んだ「細刻みたばこ」が登場し、日本は独自に進化した。
初めは粗かった刻み方も、細かい程に味わいがマイルドになるからと時代と共に細かくなっていった。最終的には毛髪ほどに細く刻まれ、この精巧な技術力から生み出された細刻みたばこは、明暦年間(1655〜1658年)以降になると町中で細刻みたばこを売るたばこ屋が登場し、瞬く間に増加した。
やがて細刻みたばこの製造は商品としての需要が増え、手刻みから生産性の高い器械製造へと移っていった。
またたばこの銘柄には様々な種類があるが、江戸時代の刻みたばこにも産地によって様々な銘柄があった。値段も銘柄により違ったが、特に大隅(現・鹿児島県)の「国分たばこ」は最高級品として人気があり、産地を偽装した偽物も出回ったりした。
また「利きたばこ」という、たばこの産地を当てる遊びもあった。
喫煙道具
細刻みたばこの喫煙が定着すると、喫煙具である煙管(きせる)も変化していった。
基本の煙管の構造は、刻みたばこを詰める「火皿」、首の付いた「雁首」(火皿の付け根から羅宇との結合部まで)、口にくわえる「吸い口」、それらを繋ぐ管である「羅宇」と、これらで出来ている「羅宇煙管」が中心であった。
火皿と吸い口は金属で、羅宇が竹で出来たものであり、また火皿は細刻みたばこの普及でより小さいものへとなった。
後に煙管全体が金属で出来た「延べ煙管」も登場し、その金属部分には彫刻が施された。他にも素材に陶器やガラスなどを使用したものもあった。
そしてこれら煙管のヤニ取りや、劣化した羅宇の交換などを行う「羅宇屋」という商売も誕生した。
また屋内で喫煙する際には「たばこ盆」が用いられた。これは炭火を収める「火入れ」、灰を捨てる「灰落とし」、刻みたばこをしまう「たばこ入れ」などの煙管での喫煙に必要な道具がまとめられていた。そして装飾には多彩な漆工芸の技が活かされた。
屋外の場合は「たばこ入れ」という、煙管やたばこを1つにまとめ携帯出来る道具があった。たばこ入れは、持ち主の個性を出すためのファッションアイテムでもあった。
人々とたばこ
江戸後期、江戸でたばこ屋を営んでいた三河屋弥平次は自著の「狂歌煙草百首」の中で「喫煙しないのは100人に2〜3人」と記している。
全体の統計としてはその正確さは分からないが、当時の喫煙率は相当高かったとされる。因みに未成年者喫煙禁止法が施行されたのは明治33年(1900年)なので、江戸時代では未成年者が喫煙したとしても法律上は問題無かった。
また遊女の煙管で喫煙する姿は、浮世絵に描かれている程有名であり、遊女は朱塗の長い羅宇の煙管を使用した。遊女に煙管は必需品であり、そしてランクの高い遊女ほど長い煙管を持てた。
さらに遊郭の風習に「吸い付けたばこ」というのがあった。張見世でお客を待つ遊女は自分好みの男性客を見つけると、格子越しに自分が吸った煙管を男性側に差し出す、男性がこれを受け取れば遊女の誘いに応じた、というものであった。
そのようなたばこだが、正徳2年(1712年)に貝原益軒が著した「養生訓」の中では、たばこの健康問題について記されている。
たばこの健康問題も含め、やはり当時から愛煙家・嫌煙家のそれぞれの意見や考え方が存在していたようである。
たばこは1つの文化であり、個性を表現したりするツールでもあり、形が変わっても歴史が刻まれているものであった。
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