家康を支えたのは、三河武士の強さだけではない。
戦費を支える財力があってこそ、戦も続けることが可能となり勝機も生まれたのである。
家康は、鉱山開発で大きな財力を獲得し、江戸幕府を開いた。
家康の財源を支えた鉱山とは何だったのか?
また、家康の鉱山開発・経営に携わった大久保長安とはどんな人物だったのか?掘り上げていきたい。
黒川金山とは
黒川金山は、山梨県甲州市塩山上萩原にあり、今も遺跡が残っている。
平安時代から砂金が出る事で知られていた。
室町期の明応地震(1498年)では、甲斐国(山梨県)が酷く被害を受けて金山が崩れたという記禄が残っており、これは黒川金山だったのではないかと推測されている。
「甲斐の虎」と呼ばれた戦国大名・武田信玄の財源が、この黒川金山だった。
信玄は、黒川金山衆(金採掘の専門職人達)を抱え、武田家の朱印状を与えていた。
武田氏滅亡後は家康の所有となるが、豊臣秀吉の命で関東へ国替えさせられ、一旦は手離す形となる。
秀吉は、家康を関東に移動させた後にちゃっかり黒川金山を我が物とした。
しかし秀吉死後の関ヶ原合戦に勝利した家康は、再び黒川金山を手に入れた。
3代将軍・家光の頃までは、佐渡金山と同量の金産出を誇ったという。
石見銀山とは?
世界遺産で有名な石見銀山は、島根県大田市にある国内最大規模を誇る銀山だった。
鎌倉末期、妙見菩薩(仏教と道教が融合した北斗七星を表す)のお告げで周防(山口県南西部)の大内氏が発見したと伝えられている。
その後は大内氏と地元領主・小笠原氏が所有を争い、1537年(天文6年)には出雲国の戦国大名・尼子氏と取り合った。
大内氏が勢力を落とすと、今度は尼子氏と毛利氏が争い、毛利氏に帰属する。
その後、秀吉に下った毛利氏は、石見の銀を朝鮮出兵の戦費として納めた。
関ヶ原の戦い後は、家康が早々に毛利氏から銀山を取り上げ、幕府が直接管理する天領とした。
このように石見銀山の所有者は、情勢と共にコロコロ変わったのである。
当時、世界の三分の一とも言われた豊富な銀の産出量は、戦国大名にとっては戦をしてでも手に入れたいものだったのである。
生野銀山とは?
生野銀山は、兵庫県朝来市にある。
銀の掘り出しは古く、807年( 大同2年)から始まっていたと伝えられている。
1542年(天文11年)但馬国(兵庫県北部)の守護・山名祐豊(すけとよ)により本格的な銀の掘り出しが始まる。
その後、織田信長が勢力を拡大すると、秀吉に生野銀山を押さえるように命じた。
信長が壮大な安土城を築けた理由は、この銀山を支配できたことも大きな要因であろう。
その後、天下を統一した秀吉は、速やかに信長をお手本にした。
全国の鉱山を押さえて、運上金(上納金)を集めさせたのである。
生野銀山のある但馬国からの上納金は、国内トップだったという。
関ヶ原合戦後、家康は生野銀山を管理する生野奉行を置いた。
しかも関ヶ原合戦が行われた年内にである。
信長や秀吉の財源を知る家康は、鉱山の重要性を誰よりも理解していたのである。
佐渡金山とは?
新潟県佐渡島に位置する佐渡金山は、別名「佐渡金銀山」とも呼ばれた。
つまり、金と銀の両方を産出した鉱山なのである。
では、どのくらい前から知られていたのか。
平安末期作成の「今昔物語」には、能登の人が「黄金は佐渡の国で掘るに限る」と言っていたことが記されている。
1589年(天正17年)上杉謙信の所領を引き継いだ甥・景勝が、鎌倉から戦国時代まで佐渡国を支配した本間氏を滅ぼし、自領とした。
1601年(慶長6年)佐渡国は、家康の領土となる。
一説では、会津征伐は、佐渡金山獲得を狙った家康が、上杉景勝を故意に挑発するためだったと云う。
家康は、佐渡金山の価値を誰よりも理解し、早くから手に入れる算段をしていたのではないだろうか。
佐渡金山は、2代将軍・秀忠から3代の家光の時代までに、年間400 kg以上の金と37.5トンの銀を産出したと記されている。
この時代において世界一の金山であった。
家康の金庫番・大久保長安とは?
大久保長安は、家康の鉱山奉行だった。
大久保長安は、1545年(天文14年)に、猿楽師の次男として生まれた。
父は猿楽師として信玄の元に仕え、息子・長安は家臣に引き立てられた。
その後長安は、代々仕えた家老に従う補佐役になり、黒川金山等の開発や税政に携わった。
武田家が潰れると、家康の重臣・大久保忠隣の下で働き、「大久保」の名字を授けられる。
長安は、家康領になった甲斐国の内政に従事し、金採掘や堤防改修など辣腕を振った。
武田氏亡き後の荒れた甲斐国を、2、3年で立ち直らせたのである。
また、家康が関東へ国替えとなった際は、家臣の所領分配に役立つ土地台帳を作った。
関ヶ原の合戦後は、石見銀山・佐渡金山を兼任で任される。
1606年(慶長11年)には、全国の金銀山を一括管理し、関東交通網の整備を担当した。
家康家臣団の中では、内政や財務能力に優れた比類なき人物で、老中に匹敵する地位も得たが、鉱山の採掘量が落ちた事で優遇も終わる。
金の切れ目が縁の切れ目となり、役職を次々解かれた。
長安の死後は、不正に蓄財していたことが明るみとなり、長安の息子7人が切腹となっている。(※大久保長安事件)
終わりに
家康が300年続く幕府の礎を築けた理由は、主要鉱山を傘下に収めたからである。
そして大久保長安は、家康の下で持てる能力を存分に発揮した。
しかし金銀の埋蔵量には限りがある。
家康と長安の蜜月は、鉱山から届く金銀減少で消え去った。
鉱山開発だけでなく、内政処理にも優れた長安を遠ざけたのは、幕府財政事情を知り尽くした長安に恐れを抱いたからなのか。
世に出ない権力者の闇が、眩い金銀の影にあるかもしれない。
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