『鬼滅の刃』は、人を喰う鬼を滅ぼすために集められた剣士集団「鬼殺隊」による鬼退治の話であるが、古典の中には、リアル鬼滅の刃ともいえる話が存在する。
それは最強の鬼と鬼殺隊の戦いを描いた「酒呑童子伝説」である。
鬼の首領・鬼舞辻無惨に相当するのは、平安時代に大江山を居城とし、手下とともに極悪非道の数々を繰り返した酒呑童子(しゅてんどうじ)。
対する鬼殺隊は、源頼光と彼の家臣である四天王、そして彼らに知恵を授ける謎の同行者だ。
今回は平安時代のリアル鬼滅の刃、酒呑童子伝説を紐解いていく。
酒呑童子はなぜ鬼になったのか
酒呑童子伝説は平安時代を舞台としているが、話として成立したのは南北朝時代ごろといわれている。
絵巻や謡曲、御伽草子、浄瑠璃、歌舞伎などさまざまな形で流布していった。
酒呑童子の生い立ちには諸説あり、越後国の出身という説や八岐大蛇(やまたのおろち)の子どもであるという説がある。
江戸時代に渋川清右衛門によって出版された『御伽草子』では、
絶世の美少年であった酒呑童子が、多くの女性からもらった恋文を読まずに全て焼いてしまったので、女性たちの叶わぬ想いが怨念となり、焼いた恋文から立ち昇る煙に包まれ鬼化した
と語られている。
鬼舞辻無惨と同様、酒呑童子は意図せず人間から鬼になってしまったのである。
鬼となった酒吞童子は全国各地を転々とした後、丹波の大江山に棲みついた。
連日連夜、茨木童子など多くの鬼を従え京の都に現れては、若い姫君をさらったり、人を斬ってその肉を喰ったりするなどの悪行を働いていた。
鬼殺隊・源頼光と四天王
極悪非道を繰り返す鬼を征伐するために集められた鬼殺隊と酒呑童子の戦いについて、14世紀ごろに作られた『大江山絵詞』から、あらすじを紹介しよう。
一条天皇の御代の頃、貴族の若君や姫君がつぎつぎに行方不明になるという事件が起きた。陰陽師の安倍晴明が占ったところ、大江山に住む鬼の仕業だとわかった。
そこで朝廷は追討の武将として、源頼光、藤原保昌を選出。
源頼光は四天王と称される家臣、渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武を、藤原保昌は太宰少監を従え討伐へと向かった。頼光の家臣である四天王は、それぞれが武勇伝をもつ腕の立つ武将で鬼殺隊の「柱」に相当する。
ちなみに源頼光は、平安時代中期に実在した武将であり、清和源氏満仲の長子で摂津源氏の祖。源頼朝は、頼光の弟・頼信の子孫である。
目指すは大江山。途中、謎の4人からアドバイスをもらう
頼光一行は、八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り大江山へと向かった。
途中、山の祠で老翁・老山伏・老僧・若い僧の四人に出会い、鬼の城へ行くには山伏姿になったほうがいいというアドバイスを受けた。老翁たちからもらった山伏装束に身をやつした頼光一行は、道案内をしてくれるという四人とともに山奥の鬼たちが棲む城へ向かった。
城に着き一晩の宿を願い出ると酒呑童子が現れた。その背丈約3メートル。童子の言葉遣いや振る舞いは、気品に満ち聡明に見えた。
頼光たちを山伏と信じ込んだ酒呑童子は、歓迎の酒宴を開いてくれた。気をよくした童子は、以前は比叡山一帯を所領としていたが最澄や桓武天皇に追放されたこと、150年前から大江山を根城としていること、時々大風や干ばつをおこして憂さを晴らしていることなど身の上話を語り始めた。
上機嫌の酒呑童子に頼光が毒酒をすすめると、童子は酔いつぶれ自室に戻って寝てしまった。
酒呑童子との戦い
武具、甲冑に身を固めた頼光一行は、酒呑童子の寝床に忍び込んだ。
そこには体長五丈(15メートル)、頭と体が赤く、左足は黒、右足は白、左手は青、右手は黄色、頭には5本の角が生え、目が15個もある奇怪な姿に変貌した酒吞童子がいた。
頼光たちはその恐ろしい姿に一瞬たじろぐが、力を合わせて鬼王・酒呑童子の首を斬り落とした。
鬼王の首は天に飛び上がって叫びまわり、頼光の兜に食らいついた。
その力はすさまじく、綱と金時の兜を借りて三重にしていた頼光の兜は、上の二つが食い破られていた。目をくりぬかれ、鬼王はついに絶命した。
老翁たち四人の正体は?
頼光一行は鬼たちの死骸を焼き、都からさらわれ城に閉じこめられていた人々を解放した。
案内してくれた老翁たち四人と大江山のふもとで別れるとき、頼光は水精の念珠と兜を交換したが、その直後四人はふっと消えてしまった。
彼らは、八幡菩薩・日吉山王権現・熊野権現・住吉明神の化身だったのである。
頼光たちは鬼の首を携え都に凱旋し、首は天皇らが検分した後、平等院の宝蔵に納められた。
京都のミステリースポット酒吞童子の首塚
京都の老ノ坂峠の森の中に、酒吞童子の首塚と伝わる「首塚大明神」がある。
首塚大明神
源頼光は子安地蔵尊の忠告により老ノ坂に酒呑童子の首塚を建てた
死に際に罪を悔い首から上の病気から人々を助けることを望んだ為に祀られるようになったと云われる pic.twitter.com/KjBHbmSCLT
— イワシ水 (@iwashimizu_IAI) September 15, 2020
言い伝えによると、酒呑童子の首を携え都へ戻る途中、頼光一行は老ノ坂峠で一休みをした。そのとき、道端の子安地蔵に「鬼の首のような不浄なものを天子様がおられる京に持ち込むな」といわれ、仕方なく一同は童子の首をこの地に埋葬し首塚を築いたという。
また、ある説では、童子は死ぬ間際に今までの悪行を悔い改め、死後は首から上に病を持つ人を助けたいと望んだため、大明神として祀られたともいわれている。
「首塚大明神」は、首より上の病に霊験があるとされている。
参考文献:小松和彦『鬼と日本人』.株式会社KADOKAWA
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