徳川家康と石田三成の対立
生まれながらにしての君主だった徳川家康と、出世やお金に興味が無く真面目に生きる事こそが人の道と信じていた石田三成。
本来なら接点が無い2人が対立する事になった原因は、豊臣秀吉であった。
豊臣秀吉は政務を取り仕切る代表として五奉行という役職を設けたのだが、そのトップが石田三成だった。
そしてもう1つ有力な役職が設けられた。
それは数ある大名の中でも、特に有力な大名たちで構成された五大老である。
その五大老のトップが徳川家康だった。
秀吉亡き後の政治体制が盤石ではなかったことが、後の関ヶ原の戦いに繋がっていくのである。
天下への道を登り始めた徳川家康
秀吉亡き後に、真っ先に動いたのが家康だった。
家康は大名や家臣の婚姻斡旋や知行の授与など、秀吉の生前には禁止されていたことを次々と行ったのである。
こうして豊臣家内でも、三成派と家康派の対立がより深まっていった。
そんな中、ある事をきっかけに時代の針が大きく動き出すこととなる。
朝鮮出兵が終わったのである。
有力武将たちから暗殺されそうになるほど、嫌われた三成
元々三成は官僚で戦場では主に後方支援を行なっており、最前線で生死をかけて戦う武断派の武将たちからは嫌われていた。
それは朝鮮出兵でも同様で、三成は主に明との交渉役や、秀吉への連絡役を担っていた。
しかしこの連絡が元で、武断派の武将たちと大きな亀裂が生まれたのである。
例えば朝鮮出兵した大名が「この作戦だとうまくいかない」と三成に話す。
それを三成から聞いた秀吉は「けしからん」と怒り、時には罰をあたえる。
大名からしたら三成の報告の仕方に不満が出るのは当然であった。
こういった理由で、朝鮮出兵した大名の間での三成の評判は最悪だったのだ。
そしてついに事件は起こる。
石田三成暗殺未遂事件
武断派の武将7名が結託して、三成を襲撃したのである。(※石田三成暗殺未遂事件)
その武将は加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長などの歴戦の名将たちであった。(※10人だったという説もある)
三成は運良く事前に襲撃計画を知り、身を隠して難を逃れた。
その時、三成が頼ったのは毛利輝元、もしくは家康の子である結城秀康だったと云われている。
しかし結局仲裁したのは家康であり、なぜか襲撃を受けた三成が責任をとらされて謹慎処分となった。
そして事件の後に政務を担当したのが家康なのである。
家康が大坂城に入り政務を担当したことで、庶民の目には現在天下を担っている男が誰なのかがはっきりと見えていたに違いない。
直江状
更に家康は動く。
西暦1600年のお正月の事である。
家康は各地の大名に年賀の挨拶として上洛を求めたが、上杉家だけが断りを入れてきたのだ。
元々上杉家は無断で軍備を増強するなど謀反の噂は流れており、家康は上杉家に謀反の真偽を追求する手紙を出した。
釈明を求められた上杉家は、家康に対してこう返答した。
会津に移ったばかりでそう何度も上洛はできません。内政も行えなくなります。上杉が謀反に備えているというのなら、まずはそう言っている者を問い正せばいいのではありませんか?
我々が武器を集めるのは、上方の方々が茶器を集めるのと同じことです。領内の整備もこれからの発展のためであり、謀反を起すなら逆に交通を遮断します。
証拠もなしに謀反だという誰かは、太閤様の遺志に従わず好き勝手にやっておりますな。
これが有名な、直江兼続による直江状である。(※但し直江状は原書がなく後世の創作という説もある。さらに家康ではなく兼続の友人である僧侶に宛てられた書状とも云われている)
この返答を受けた家康は、上杉家を討伐すべく出兵した。(※会津征伐)
そして三成は、家康の行動を激しく非難する「内府ちかひの条々」を全国の諸大名へ発し、徳川討伐を宣言したのである。
毛利輝元を西軍の大将として必勝体制を整えるのであった。
この西の大将として石田三成から頼りにされていた毛利輝元は、家康に次ぐ第二の戦力をもつ大名である。
しかし毛利輝元は、後の関ヶ原の戦いでは一戦も交えず撤退している。
東軍勝利の理由
天下分け目の関ヶ原の戦いで、三成(西軍)が敗れた大きな要因は3つある。
1つ目は前述したとおり、毛利軍が動かなかったことだ。
実は毛利軍は輝元を大将に推薦した安国寺恵瓊と、家康を支持する吉川広家らが直前まで揉めていたのである。
さらに広家は裏で家康と通じており、毛利家の戦闘不参加を誓う書状とそれを保証する人質まで送っていたという。
実際に関ヶ原の戦いでは輝元は大坂城に残り、徳川軍の背後近くから秀元軍と広家軍が襲う形になっていたのだが、開戦しても広家軍は動かず秀元軍の道を塞ぐ形となった。
道を開けない広家軍に対し「なぜ開けないのか?」と問う秀元軍への言い訳は「これから弁当を食べる」だったという。(※宰相殿の空弁当)
2つ目は、西軍に三成に恨みを持つ者たちがいたことである。
そしてこの恨みの多くが朝鮮出兵の時の恨みであり、有名な小早川秀秋の裏切りも同様である。
ちなみに小早川秀秋は朝鮮出兵時に仲間を救援するために先陣を切って奮闘したが、三成がそれを秀吉に報告した際に「総大将なのに軽率すぎる」と怒られたうえに領地まで没収されている。
3つ目は、三成の自慢の家臣の島左近が、黒田長政の鉄砲隊の銃弾を受けて倒れたことである。
初日の前哨戦で島左近は猛将の呼び名に相応しい大活躍をし、西軍は大いに盛り上がったのだ。しかし開戦直後に島左近が戦闘不能となったことは西軍にとって大きな不運だったといえる。
最後に
家康にとって、三成に恨みを持つ朝鮮出兵組が帰還した後の戦いは、タイミング的にも絶妙だったはずである。
対称的に決起する前の三成に対して、島左近は「ここは筋を曲げてでも、今まで疎遠であった大名と親交して時を待つのが得策ではないか」と進言したが、三成は聞く耳を持たなかったという。
「戦いでは強い者が勝つ、辛抱の強い者が」
まさしく家康の名言そのままの戦いであったのだ。
この記事へのコメントはありません。