指輪がどこでどういう形で誕生したのかは、ハッキリしてはいない。
確実なのは、古代エジプト時代には既に指輪の習慣が根付いていたことであろう。
指輪は日本にも伝わり、縄文時代から存在している。今回は指輪の歴史を調べ、違う側面から日本の歴史を探ってみた。
お守りとして指輪が使われた縄文時代から古墳時代
縄文時代に使われていた指輪は、動物の骨や鹿の角から作られている。当時は、魔除けやお守り目的として使われていた可能性が高い。
当時の人々は狩猟生活を送っていたため、常に危険とは隣り合わせである。そこで動物からできたアクセサリーを身にまとい、自然から力を得て安全に狩猟しようと考えていたことが推測できる。
弥生時代になると、指輪は死者を弔うための道具として使われるようになる。実際に神戸の新方遺跡では、指輪をはめた状態で人骨が発見された。
古墳時代になり海外との貿易が盛んになると、輸入物の指輪が使われるようになった。
福岡県にある沖ノ島古墳から発掘されたゴールドの指輪にある花紋と、韓国の「金鈴塚」から発掘された指輪に描かれている花紋が、見事に一致している。この指輪は「韓国からの輸入品」と、結論付けるのが自然の流れであろう。
しかし他のアクセサリーと比べると、これまで指輪はほとんど発掘されていないのである。
歴史学者の間でも「日本に指輪の文化は根付いていなかった」というのが、定説になっている。
指輪が消滅した1100年!奈良時代から江戸時代
奈良時代から明治時代までの1100年間、実は日本から指輪が消えてしまっている。指輪だけでなく、ネックレスやイヤリングの姿もない。
1100年もアクセサリーが消えた理由については、4つの説がある。
それは、
・冠位十二階制定説 (衣服の質と色で位が表されるようになり、装身具で地位や身分を表す風習が消滅したとする説)
・着物代替え説 (衣服の発達により、形、色彩が豊富に取り扱われるようになり、装身具の役割をそれらが吸収してしまったとする説)
・火葬説 (土葬から火葬へと変化したことで死後の世界観が変化し、装身具の文化に大きな変容をもたらしたとする説)
・薄葬令説 (646年の薄葬令により貴金属等の副葬が禁止となり需要が無くなった。さらに勾玉などの装身具が神格化され、庶民が気軽に身に着けにくくなったとする説)
である。
しかし、いずれの説も決定打に欠けており、アクセサリーが消えた理由は不明のままである。
だが共通点としては「変化」が挙げられる。
冠位十二階は、世襲制から個人の実力で位を制定するようになった、いわば「社会の変化」である。
衣服技術の発達による着物の広がりは「文化の変化」。
土葬から火葬への移行や、大掛かりな葬礼を廃止して簡素化した「薄葬令」は「風習の変化」である。
変化について掘り下げればきりがない。狩猟生活から稲作生活へと変化すると、アクセサリーをつけたままの農作業は邪魔にしかならないため、必要とされなかった。
武士たちの時代になり命を削る戦いが増えると、アクセサリーは無用の長物となる。武士たちはアクセサリーの代わりに、ド派手な鎧兜でアピール合戦をした。有名なものは伊達政宗の三日月兜、直江兼続の兜に飾られている「愛」の文字であろう。
しかしそのド派手な鎧兜も時代とともに姿を消し、実用性重視のものへ変化していった。
宗教弾圧に苦しんだ江戸時代
江戸時代には鎖国政策がとられ、日本は閉ざされた世界となった。
しかし一部の海外文化は日本に流入していた。
実際に長崎の出島近辺の芸者達は海外の指輪を愛用していたという。おそらく外国人客からのプレゼントだったのだろう。
また仙台藩主である伊達政宗の命を受けて、ヨーロッパへ渡った支倉常長(はせくらつねなが)の姿を描いた「支倉常長像」には、しっかりと指輪が描かれている。
戦乱が多かった戦国時代まではともかく、平和な江戸時代は指輪が広まる環境は十分整っていたと言える。そんな中でも指輪が広まらなかったのはキリスト教弾圧の影響が大きいだろう。
1550年九州にポルトガル船が来航。キリスト教の広まりと同時に西洋のアクセサリー文化も上陸した。特にマント・ロザリオ・指輪は重宝されたという。
しかし1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や、1612年の江戸幕府による禁教令により、マント・ロザリオ・指輪も姿を消した。
もしキリスト教の弾圧がなかったら、指輪はもう少し早く日本に広まっていたかもしれない。
指輪の復活!明治時代
明治時代になると、海外から数多のアクセサリーが押し寄せて来た。
1883年に鹿鳴館が建てられると、指輪の人気は絶対的なものになる。
日本初のジュエリーブランド「植田商店」が創業されたのも、鹿鳴館とほぼ同時期である。植田商店は「ウエダジュエラー」と名前を改め、令和の現在も絶賛営業中である。
庶民の間にも指輪文化は浸透した。
尾崎紅葉の小説「金色夜叉」では、物語の重要アイテムとして指輪が登場する。また小早川清のイラスト「近代時化粧ノ内―ほろ酔ひ」では指輪をした女性の姿が描かれている。
大正時代には誕生石が広がり、指輪の人気は不動のものとなった。
戦争を乗り越え、昭和から現代へ
第二次世界大戦の頃になると再び指輪の人気は急落する。指輪は「贅沢品」として扱われ日陰に追いやられてしまった。戦争が終結しても指輪は高嶺の花であった。
しかし苦しい中でも指輪に情熱を向ける者がいた。1946年に横浜で生まれた「スタージュエリー」は、日本に進駐していたアメリカ兵相手にアクセサリーを販売した。クオリティが高く、遠く離れたアメリカでも話題になるほどだったという。
1960年の高度成長期に入ると、指輪は爆発的な広がりを見せた。
1970年頃には婚約指輪の習慣が根付くことになるが、裏にはアメリカの宝石会社「デビアス社」の戦略があったという。50代以上の方であれば「婚約指輪は給料3か月分」というキャッチフレーズは、一度は耳にしていることだろう。
1990年代になると、指輪はもっと身近なものになった。1997年創業の「AHKAH」は、高級ブランド並みのクオリティを誇る指輪が、1万円台から購入可能となった。
さらにアメリカのブランド「クロムハーツ」の登場で、指輪は性別年齢関係なく楽しめるようになった。
現代はネットの発達により、指輪は自宅に居ながら購入できるようにまでになっている。
【参考書籍】
河出書房新社「図説|指輪の文化史」 浜村隆志
光文社「謎解き アクセサリーが消えた日本史」 浜村隆志
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