服部半蔵正成とは
服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり・まさしげ)は、家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名であるが、実は忍者ではなかった。
現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」では、忍びと言われつつも本人は武士だと言っているシーンが、山田孝之氏によって面白おかしく演じられている。
今回は、「服部半蔵正成は実は忍者ではなかった」ということについて掘り下げていきたい。
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初代半蔵
伊賀忍者は上忍が組織を支配する構造になっており、「服部・百地・藤林」家という三大上忍が伊賀国内に存在した。
中でも服部家は伊賀を代表する名門とされ、代々伊賀国花垣村余野(現在の伊賀市)の千賀地谷に居住し、周辺の地を治めてきた一族であった。
服部半蔵正成の父である服部保長(はっとりやすなが)が、初代・服部半蔵(※半三)である。
服部保長は百地三太夫、藤林長門守と共に、伊賀上忍三家の1人であった。
服部家の当主は保長から、代々通称を「半蔵」と名乗るようになったが、忍者だったのは初代・服部半蔵保長だけである。
狭い土地で生活が逼迫したため、保長は一族を連れて伊賀を出て、室町幕府第12代将軍・足利義晴に仕えた。
その後、三河国を平定した松平清康(※家康の祖父)が将軍に謁見するために上洛した際に保長と出会い、とても気に入ったという。
将軍家が衰退していたこともあり見切りをつけた保長は、その縁で松平清康に仕えることになり、その後は家康の父・松平広忠にも仕え、松平家譜代の家臣となったのである。
三河移住後の保長の詳細は不明だが、現在の岡崎市伊賀町周辺に居住したという。
隠居後は号を「浄閑」とし、岡崎城下で没した。
2代目半蔵
「服部半蔵」として世間でよく知られているのは、2代目の服部半蔵正成のことである。
天文11年(1542年)に初代・服部半蔵こと保長の五男(※六男とも)として三河国伊賀で生まれた。
6歳の時に大樹寺へ預けられたが、3年後に出家を拒否して失踪している。
正成は親元には戻らず、兄たちの援助で暮らしていたという。
その後の7年間、初陣とされる「宇土城攻め」までの消息は不明であるが、正成は父・保長の跡目として服部家の家督を継ぎ、通称「半蔵」と呼ばれた。
ここからは正成ではなく「半蔵」と記す。
つまり半蔵は忍者として生まれたのではなく、徳川家譜代の家臣として生まれたのである。
初陣は前述したように弘治3年(1557年)の「宇土城攻め」である。16歳の時に宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を挙げて、家康から盃と持槍を拝領したという。
この時は、甲賀忍者80人を率いた伴資貞(ともすけただ)と協力して夜襲を行ったとされている。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、家康が三河統一に着手していた時期には、半蔵は旗本馬廻衆に所属していた。
永禄6年(1563年)三河一向一揆の時には、半蔵は一向宗であったが家康に忠誠を誓い、一揆勢と戦った。
元亀元年(1570年)姉川の戦いでは姉川堤における一番槍の功名を挙げ、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは、先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を挙げたという。
しかし三方ヶ原の戦いでは徳川軍が武田軍に大敗したために、半蔵は大久保忠隣・菅沼定政らと共に家康を守りながら、浜松城を目指した。
この時、半蔵は顔と膝を負傷していたが、家康の馬に追いついた敵と格闘してその敵を撃退したという。
その後なんとか浜松城に戻ったが、敗戦で狼狽している味方を鼓舞するために半蔵は1人で城外に引き返し、敵と一騎打ちの末に討ち取った首を手に城内に戻った。
この戦功により半蔵は、家康から褒美として平安城長吉の槍を含む槍二穂を贈られ、伊賀衆150人を預けられ「鬼半蔵」という異名を取った。
家康の家臣団には「槍半蔵」と異名を取る者がいたが、これは半蔵のことではなく渡辺守綱のことである。
介錯できなかった半蔵
その後も家康と共に戦場を駆け巡った半蔵だったが、天正7年(1579年)に大事件が起きる。
家康と嫡男・信康が対立し、父子間の修復はもはや不可能となったのである。
家康の正妻・築山殿は暗殺され、信康は二俣城で切腹することになり、半蔵がその検分に遣わされた。
この時に信康の介錯を命じられたのは、渋川四郎右衛門であった。
しかし、その渋川はなんと出奔してしまったのである。
そのため半蔵が介錯を命じられたが、信康のあまりのいたわしさに首を打ちかね、刀を投げ捨てて涙を流し、倒れ伏してしまったという。
そして半蔵の代わりに、天方通綱が介錯を行なった。
報告を受けた家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言って半蔵を一層評価したという。
この逸話は「三河物語」に描写されているが、実は半蔵は信康とはほとんど面識がなく後世の創作であるという説や、半蔵ではなく渡辺半蔵が介錯したという説もある。
伊賀越え
天正10年(1582年)6月、家康が信長の招きで少数の供のみを連れて上方を旅行していた時に、本能寺の変が起きた。
この時、堺に滞在していた家康一行は、甲賀・伊賀を抜けて伊勢から三河に帰還することを選んだ。
いわゆる「伊賀越え」である。
先祖が伊賀出身であった半蔵は、商人の茶屋四郎次郎と共に伊賀・甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させることで伊賀越えを助け、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。
この時に味方になってくれた伊賀・甲賀衆たちは、後に馬廻・伊賀同心・甲賀同心として徳川幕府に仕えている。
実はこの時、一揆勢が現れて襲ってきたために半蔵は応戦したが、土塁に駆け上がった時に堀に転落し、上から槍で足を10か所近く突かれて気を失ったという。
家康の家臣・芝山小兵衛は家康に「半蔵は討死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ったところ生きていたために、介抱されながら一緒に帰ったという逸話がある。
この働きで、半蔵は家康から御先手頭を申し付けられた。
半蔵の最期
その後、半蔵は伊賀衆を率いて数々の戦で戦功を挙げ、遠江に知行を与えられた。家康の関東入り後には与力30騎・伊賀同心200人を付属され、8,000石を領した。
半蔵は武将であったが、父・保長が伊賀忍者であった縁から、徳川家に召し抱えられた伊賀同心を統率する立場となった。
しかし伊賀同心や伊賀衆は、伊賀越えを支援した縁で仕官された地侍とその家族であり、半蔵の家臣ではなかった。
家康は彼らを同心として雇い、指揮権を伊賀の血筋である半蔵に与えたが、伊賀衆たちは「自分たちは徳川家に雇われたのであり、服部氏の家来になったのではない」という認識だった。
半蔵の父・保長が、早い時期に伊賀を出て三河に住んだことも一因である。
伊賀における半蔵の家格が自分たちよりも下であることを理由に、半蔵に指揮されることを無念に思う者も多かったという。
彼らは「伊賀同心二百人組」として組織化され、江戸城周辺の守備にあたった。
半蔵は慶長元年(1597年)11月14日に病没したが、死因となった病名は現在も不明である。
半蔵の死後、3代目服部半蔵は嫡男・正就が継いで伊賀同心支配役の任についたが、伊賀同心と服部家との確執は続いたという。
その後の服部家
3代目半蔵となった服部半蔵正就は、関ヶ原の戦いで鉄砲奉行として活躍したが、父の代から続く伊賀同心との軋轢からトラブルが多かったという。
さらに幕府に禁じられていた夜間の無断外出を行なったことで改易となり、伊賀同心の支配と服部半蔵の名を返上することになってしまった。
4代目半蔵には佐渡金山同心であった正就の弟・正重が継いだが、伊賀同心の支配の任は解かれ半蔵の名を継ぐのみとなった。
正重は佐渡金山同心を務めた後に村上藩に仕え、晩年は桑名藩に招かれて上席家老を務めた。
正重の功により、服部半蔵の家は幕末まで代々桑名藩で家老職を務めたという。
おわりに
服部半蔵正成の屋敷が江戸城の尾御門内にあったために、この門は後に「半蔵門」と呼ばれるようになった。
服部半蔵正成は、武将として知行を与えられて伊賀同心200人を率いており、はたから見れば正に忍者の頭領である。
しかし実は伊賀衆とは軋轢があり、複雑な立場だったのである。
7日の大河ドラマで「私は忍者ではありません」と言った山田さんが演じた服部半蔵が、この記事を読むと何か心情が伝わって面白かったです。