亀姫とは
亀姫(かめひめ)とは、徳川家康と瀬名姫(築山殿)の間に生まれた長女で、「どうする家康」では、當真あみが演じている。
母に似て愛らしく天真爛漫で、家康からの溺愛はもちろんのこと周囲からも愛されて育つが、山深い奥三河にある長篠城主・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)と政略結婚をさせられる。
その後、亀姫は夫・信昌に生涯1人も側室を持たせずに、4人の男子と1人の娘を儲けた。
後に起こる、本多正純の「宇都宮城釣天井事件」の黒幕だという説もある。
とても気の強い女性であり、幼くして藩主となった孫の後見として、戦国時代の荒波を乗り越えた女性であった。
今回は、母・築山殿よりも気が強く嫉妬深かった家康の長女・亀姫の生涯について掘り下げてみたい。
出自
亀姫は永禄3年(1560年)松平元康(徳川家康)と瀬名姫(築山殿)の長女として駿府で生まれ、1歳年上の兄「信康」がいた。
父・家康は駿府の今川義元の人質になっていだが、義元は家康を養育し元服までさせ、今川家の重臣・関口親永の娘・瀬名を自分の養女とし、家康のもとに嫁がせた。
人質でありながら厚い処遇を受けた家康は、義元の期待に応えて初陣を果たし、武功を挙げている。
しかし、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で義元は織田信長に討たれ、それを機に家康は今川家から独立する。
そんな激動の年に、亀姫は生まれたのである。
家康は、今川家の人質となっていた瀬名姫と信康・亀姫を救出し、共に岡崎城で過ごした。
信長と同盟を結んだ家康は、武田信玄と結んで今川氏真の領国に攻め入るが、氏真を逃がしたことで信玄と対立することになった。
家康は信玄に三方ヶ原の戦いで大敗を喫したが、西上作戦を行なっていた武田軍は、急遽甲斐に引き返した。
甲斐の虎・信玄が亡くなったのである。
政略結婚
奥平貞能(さだよし 定能とも)は三河国の有力国人で、元々は今川氏に属していたが、桶狭間の戦いから家康に属し、上村合戦で遠山氏が惨敗したことで武田方と内通し、武田氏に属していた。
元亀4年(1573年)頃、家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するために、有力な武士団を持つ奥平氏を味方に引き入れることを考えた。
奥平氏に使者を送ったが、当主・奥平貞能は「御厚意に感謝します」という程度の返答であった。
そこで家康は信長に相談すると、信長は「長女・亀姫を貞能の長男・信昌に与えるべし」と意見を伝えた。
そして家康は貞能に
・亀姫と信昌の婚約
・領地加増
・貞能の娘を本多重純に嫁入りさせる
という条件を提示した。
貞能はこれに同意し、政略結婚が成立したのである。
信玄が亡くなったことで武田家は求心力を失っていたこともあり、貞能・信昌親子は奥平家存続のためには家康と結び付くことが得策だと考えた。
実は信昌にはこの時、武田家の人質となっていた妻・おふうがいたが、信昌はおふうと離縁し徳川家の家臣となった。
しかしこのことで武田勝頼の怒りを買い、武田家の人質だったおふうや信昌の弟・仙千代など、奥平家の人質3人は処刑されてしまったのである。
天正3年(1575年)奥平親子は武田勝頼に備えるために、新城城を築城し始めた。
奥平氏の離反に激怒した勝頼は、1万5,000の軍を率いて長篠城へ押し寄せた。
信昌は長篠城にたった500の兵で籠城し、織田・徳川連合軍の援軍が到着するまで武田軍の猛攻を耐え凌いだ。
そして長篠の戦いとなり、この戦いで織田・徳川連合軍は武田軍を破って大勝利を収め、約束通り家康は17歳の長女・亀姫を22歳の信昌のもとに嫁がせたのである。
信昌は現在の愛知県新城市に新城城を築城し、亀姫は信昌との間に嫡男となる家昌ら4男1女を儲けたが、亀姫は信昌に生涯側室を持たせなかったという。
その後、奥平氏の当主となった信昌は、家康に従って数々の戦に出陣し武功を挙げた。
関ヶ原の戦い
天正17年(1590年)関東に国替えとなった家康に従った信昌は、上野国甘楽郡宮崎3万石の城主となり、亀姫も宮崎城に入った。
信昌は、関ヶ原の戦いの本戦にも従軍し(※一説には秀忠軍とする文献もある)その後は初代・京都所司代に就任して、慶長6年(1601年)には美濃国加納(現在の岐阜県岐阜市)10万石に加増転封となった。
加納に移ったことから亀姫は「加納御前・加納の方」と呼ばれるようになった。
夫・奥平信昌の出世には彼自身の武功はもちろん、正室の亀姫が家康の娘であったことも大きな要因だったと考えられている。
立て続けの不幸
慶長19年(1614年)亀姫に、立て続けの不幸が訪れた。
同年8月に三男・忠政が、11月には長男・家昌が死亡し、翌年には夫・信昌も亡くなってしまったのである。
亀姫は出家して「盛徳院(せいとくいん)」と号した。
亡くなった家昌の嫡男・忠昌は、わずか7歳で父の跡を継ぎ、宇都宮藩10万石の藩主に就任し、亀姫は幼い孫・忠昌の後見役となった。
宇都宮城釣天井事件の黒幕説
亀姫の孫・忠昌は、12歳の時の元和5年(1619年)、下総国古河藩(現在の茨城県古河市)11万石の藩主に転封となった。
その代わりに宇都宮藩主になったのは、父・家康の軍師であった本多正信の長男・本多正純であった。
正純は頭が良く、家康が幕府を開いてからは特に重用され、駿府での大御所政治を最側近として支えていた。
しかし父・正信からは
「3万石までは本多家に賜る分として受けよ。それ以上は望むな。決して受けてはいけない、もし受ければ禍が降りかかる」
と説かれていた。
家康と父・正信が相次いで亡くなると、正純は2代将軍・秀忠に仕え、加増されて下野国小山藩5万3,000石で年寄(老中)となった。
しかし、先代からの宿老であったことで権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠の側近・土井利勝や酒井忠世から疎まれるようになった。
その後、前述した通り奥平忠昌の代わりに宇都宮藩15万5,000石の藩主となると、譜代大名として上位の石高となり、正純は周囲からますます疎まれた。
実は亀姫は、正純のことを前から快く思ってはいなかったようである。
亀姫の娘は、初代小田原藩主・大久保忠隣の嫡男・忠常に嫁入りしていたが、忠常は病気で慶長16年(1611年)に亡くなってしまった。
大久保忠隣は嫡男の死に意気消沈し、政務を欠席するなど家康の不興を買い、改易となった。
亀姫は本多正純とその父・正信が、大久保忠隣を陥れたと見なしていた。
それゆえに今回の忠昌の転封には我慢がならなかったのである。
加えて、奥平家はかつて宇都宮藩10万石であったのに対し、本多家は宇都宮藩15万5,000石だった。
そして元和8年(1622年)事件が起きる。
将軍・秀忠が家康の7回忌に日光東照宮に参拝し、その帰路に正純の宇都宮城に宿泊する予定となった。
しかし「正純が宇都宮城の湯殿に釣天井を仕掛け、将軍・秀忠を暗殺しようとしている」という謀反の情報が入ったのである。
これを受けて、秀忠は宇都宮城には寄らずに、江戸城へと戻った。
世に言う「宇都宮城釣天井事件」である。
しかしその後、調べてみると釣天井は無かった。だが本多家は改易となり、正純とその息子・正勝は、出羽国由利に流されて2人はそこで亡くなった。
その代わりとして、宇都宮藩には再び忠昌が11万石で入ることになったのである。
この事件は「亀姫が秀忠に嘘の情報を流して正純を失脚させた黒幕」という説があるが、真相は明らかにはなっていない。
その後、亀姫は寛永2年(1625年)加納において66歳で死去した。
他に4人いた家康の娘、5人姉妹の中で一番長く生きたのが亀姫だった。
おわりに
亀姫は大変気が強い女性だったようで、他にも逸話がある。
亀姫は嫉妬深く、夫に生涯側室を持たせなかったという。
また、侍女12人を手討ちにしたという話も伝わっている。
古河藩に移封になった際も、本来は「私物以外はそのまま残して立ち去るように」と法度で定められていた。
しかし本多正純を憎んでいた亀姫は、障子・襖・畳までも撤去し、邸内の竹木まで掘り起こして一切を持ち去ろうとしたが、本多家の家臣に見つかって返還したという。(※この話の真偽のほどは定かではない)
だが戦国大名の妻として夫を支え、息子を亡くすと幼い孫の後見役となり、戦国の世の荒波を生き抜いたのは、さすがは天下人・家康の娘(長女)である。
うわぁおとなしかった「どうする家康」の亀姫は本当は気が強い女だったのか?
でも戦国大名の娘はこの位強気でしかも後に天下人の長女、男に生まれたら次の天下人、
ならば、気が強くて当たり前ですね。
この記事を読んだ後に4日の「どうする家康」見ました。鳥居強右衛門と亀姫、本来は姫様と下級武士つながりはないが、亀姫が信長に直談判し、築山殿が加えて進言、これがドラマの良い見どころでしたね。
そう思い亀姫の立場になれば・・・・・んす。でも記事先に読んで後からドラマ見て読み返したら、何か感動しました。
ありがとう、草の実堂さん、ありがとうrapportsさん。