どうする家康

【どうする家康】「本能寺の変」の当日、家康はどこにいたのか?

次のハイライトは「本能寺の変」

先日放送された「どうする家康」では、築山殿信康の壮絶な最期が描かれました。

次に描かれる重要な場面は「本能寺の変」になるでしょう。明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で討たれた織田信長

このとき家康はどこにいたのでしょうか。

今回の記事では「本能寺の変」までの流れ、そして「本能寺の変」が起きたあとの家康について見ていきたいと思います。

「本能寺の変」の当日、家康はどこにいたのか?

画像:本能寺本堂 public domain

家康は大阪の堺にいた

天正10年(1528)6月2日、つまり本能寺の変の当日、家康はわずかな家来だけを伴い、大坂の堺に滞在していました。その理由は信長の招待を受けたためです。

天正10年は、信長と家康からすると「天国と地獄」のような年でした。この年の春、長年の宿敵であった武田家を滅ぼしたからです。

信長は武田家の対応を家康に任せていました。信玄も家康の背後にいる信長を警戒して、家康の領土には手を出しませんでした。

しかし信長が室町幕府の将軍・足利義昭と対立すると、信玄は上洛を決意します。

武田家の滅亡

三方原で家康を叩き潰した信玄ですが、遠征の途中で病死します。このあと跡を継いだ武田勝頼長篠の戦いで大惨敗を期し、武田家は窮地に立たされました。

それでも勝頼は家康の領土を何回も攻めて続けましたが、長篠の戦いから7年間、家康は武田家の力が消耗するのを待っていました。このあいだに、築山殿事件も起きています。

「軍人」としての勝頼は優秀でしたが「政治家」としてはイマイチだったかもしれません。何度も遠征を繰り返すにも関わらず、内政には力を入れませんでした。武田家の領土(甲斐国)では重税が課せられたため、次第に人心が離れていきました。

やはり勝頼は、父・信玄よりも見劣りする人物だったのでしょう。信玄の国家経営に関しては、以前の記事「なぜ武田信玄は「信玄公」なのか? 隠れた経済的センスに迫る」を参照していただけると幸いです。

武田家の弱体化をチャンスと見た信長は、北条氏政と同盟を締結。そして家康を引き連れて、武田家を攻めたのです。

このとき家康は、隣国である駿河国から侵入します。しかし、駿河国では大きな抵抗を受けませんでした。駿河国を担当していた穴山梅雪が家康に寝返ったためです。

「本能寺の変」の当日、家康はどこにいたのか?

画像 : 甲越勇將傳武田家廾四將:穴山伊豆守信良(歌川国芳作) public domain

ドラマでは、医師の減敬として岡崎城に侵入した梅雪。築山殿を裏切った勝頼に嫌気が差したための寝返り、という伏線で描かれるでしょう。

勝頼の最後は悲惨でした。梅雪をはじめとして部下に次々と裏切られ、彼の周囲には誰もいません。

最後は天目山に逃げ込み、妻と息子と共に自害。武田本家は滅亡しました。天正10年3月の出来事です。

信長から大坂旅行を提案される

家康は信長の安土城に招かれ、丁重な接待を受けました。信長は今までの家康を労い、かなりのお持てなしをしたそうです。信長の天下統一は目前に迫っていました。

このとき信長は「京都や大坂を見物したらどうか、ワシもあとから京都にいくから、飯でも食おう」と提案します。

家康は「それではお言葉に甘えて」と言い、同行していた穴山梅雪と一緒に、京を経由して堺に向かいました。

家康が堺を見物しているとき、信長が京都にある本能寺で、明智光秀の謀反によって死んだという情報が入ります。

「本能寺の変」の当日、家康はどこにいたのか?

画像 : 本能寺の変 public domain

もちろん家康からするとショックでしたが、それ以上に心配なのが自分の安全です。目の前にはわずかな家来しかおらず、堺は家康の領土でもないため、救援をすぐ呼ぶこともできません。

光秀から見ると、家康は信長の手下のような存在です。信長の次は、家康をターゲットにするかもしれません。しかも京都から堺へは半日もあれば行ける距離です。

しかし幸いだったことがあります。「本能寺の変」が起きた当日の午後、家康は信長と会う予定でした。そのため家臣の本多忠勝を先に行かせていたのです。本能寺の変を知った忠勝はすぐさま堺に走り、早い段階で家康に知らせることができました。

信長の死んだ時間が当日の未明で、家康が信長の死を知ったのが正午ごろだったそうです。

家康は本能寺の変が起きた、わずか8時間後に事態を把握できたことになります。

どうやって逃げるか、ルートは2つ

家康に残された選択肢は1つしかありません。三河へ逃げることです。

光秀だけではなく、家康の首(賞金)ほしさに、野盗や地侍が襲撃してくる可能性も十分にあります。家康はまさに獲物を狙う動物たちに囲まれているような状況です。

このとき家康は、どのようなルートで三河まで逃げたのでしょうか。考えられるルートは2つです。

1つ目は、船を使うルートです。堺から船を用意し、紀伊半島を回り、伊勢湾から三河湾に戻るルートになります。

2つ目は、陸路です。京都を突っ切り、伊賀国に入り山道を通って、三河国に逃げ込むルートです。

光秀の軍は京都にいるため、陸路は大変危険なルートです。しかし、家康は伊賀越えの陸路を選択します。その理由は、このとき家康の家臣として服部半蔵が同行していたからです。

半蔵は伊賀国出身になるため、とにかく伊賀国にさえ入ってしまえば大丈夫だろう、という計算が家康にあったと予想されます。

画像:伊賀越えを選択した家康 public domain

この選択が功を奏します。家康はなんとか三河へ逃げ込むことができたのです。

その一方、一緒に行動をしていた穴山梅雪は伊賀国に入る直前、家康とは別行動を取りたいと主張します。そして梅雪は野盗の餌食となって、首をとられてしまいました。このとき梅雪がなぜ別行動を主張したのかについては、別の機会で考えたいと思います。

「伊賀国に入る」という家康の選択は、結果的に正しかったことに…。家康は人生最大のピンチをなんとか乗り越えたのです。

参考文献:井沢元彦『英傑の日本史 信長・秀吉・家康編』KADOKAWA、2009年3月

 

村上俊樹

村上俊樹

投稿者の記事一覧

“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
Twitter→@Fishs_and_Chips

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 豊臣家を内政・外政で支えた北政所ねね 「信長まで魅了した、ねねの…
  2. 徳川家康、ついに「神の君へ」…その死因は「鯛の天ぷら」だったのか…
  3. 徳川家康に保護され、生き永らえる今川氏真。その子供たちを一挙に紹…
  4. 家康に忌み嫌われた異端児! 六男・松平忠輝 「文武に優れていたが…
  5. 【どうする家康】 瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れ…
  6. 本能寺の変の黒幕は誰? 「朝廷、足利義昭、秀吉、家康~様々な説」…
  7. 浅井長政とは 〜「信長の妹・お市と結婚し、死後に将軍家光の祖父と…
  8. 安土桃山時代の茶人・廣野了頓(ひろのりょうとん)とは? 【豊臣秀…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

朝ドラ「らんまん」の主人公モデル、牧野富太郎は国民的スターだった

朝ドラ「らんまん」のモデルになった牧野富太郎は、高名な植物学者であると同時に国民的スターだった。…

ドイツ帝国海軍 「当時世界第2位だった戦わない海軍 〜現存艦隊主義」

ヴィルヘルム2世の野望ドイツ帝国海軍は、1871年にヴィルヘルム1世の下で統一されたドイ…

【どうする家康】 本能寺の変に“黒幕”はいるのか? 「世界史の法則」から考察する

家康が信長を殺す?先日放送された「どうする家康」では、衝撃的なラストシーンが描かれました。…

ディズニー社はなぜ著作権に厳しいのか調べてみた

※ウォルト・ディズニー (1954年1月1日)著作権とは、明確な形を持たない無体財産権(…

奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

奈良県奈良市にある東大寺といえば 大仏さま が有名である。大仏殿に入ると大仏さまの高さ約18…

アーカイブ

PAGE TOP