阿部忠秋とは
阿部忠秋(あべただあき)とは、江戸幕府3代・徳川家光と4代・家綱の時代に、松平信綱らと共に老中として幕閣を担った譜代大名である。
鋭敏で才知に富み「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱に対し、阿部忠秋は剛毅朴訥な人柄だったという。信綱とは互いに欠点を指摘・補助し合って幕藩体制の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残るこの時代に幕政を安定させた。
阿部忠秋は「細川頼之以来の執権」と評され、責任感が強く、捨て子を何人も拾って優秀な奉公人に育て上げた。
今回は、精錬で現実を知る君子、阿部忠秋について掘り下げていきたい。
出自
阿部忠秋は、家康・秀忠に仕えた阿部忠吉の次男として慶長7年(1602年)に生まれた。
諱ははじめ「正秋」だったが、秀忠から「忠」の字を拝領し「忠秋」と名乗った。
兄が亡くなって家督を相続し、父の遺領6,000石を継いだ。
寛永3年(1626年)に加増されて1万石の大名となり、寛永10年(1633年)3月に六人衆(後の若年寄)になり、同年5月に老中格に任じられる。
下野国壬生藩2万5,000石から忍藩5万石に転封した後に加増されて、忠秋は忍藩8万石の藩主となった。
才気溢れる松平信綱に対し、忠秋は現実を直視してそれに沿うような策を考える人物で、3代・家光と4代・家綱の老中として幕閣の中枢として活躍した。
発言を逆手に取る
ある寺の僧侶が、他の寺院への転属を頑なに拒んでいた。
松平信綱は「知恵伊豆」らしく理路整然と説得を試みたが、僧侶はますます反発して断固として転属を拒んだ。
次に忠秋が「どうしても〇〇寺に行くのは嫌なのか?」と聞くと、僧侶は「はい、たとえお咎めを受けることになろうともお断りいたします」ときっぱりと答えた。
すると忠秋は「分かった。では咎めとして〇〇寺への転属を命じる」と返した。
これを聞いた僧侶は「知恵伊豆様(信綱)よりも豊後様(忠秋)の方が上手でいらっしゃる」と笑いながら転属を受け入れたという。
庶民の暮らしを知る
ある時、家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけた。
家光は鴨を飛び立たせるために小石を投げるように命じたが、手ごろな小石がなかった。
そのため、魚屋から蛤(ハマグリ)を持ち帰らせて小石の代わりにして投げた。
翌日にこの話を聞いた信綱は「上様のお役に立った魚屋は幸せ者で、蛤の代金を取らせることはあるまい」と言った。
しかし、同席していた忠秋は「上様のお役に立ったのは名誉に違いないが、商人はわずかな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えては御政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという。
浪人対策
大名の改易で、江戸の町は浪人で溢れかえっていた。
そんな時に家綱の時代となり、幕府転覆を狙う慶安の変(由井正雪の乱)が起きた。
酒井忠勝や信綱は「江戸から浪人たちを追放する」案を提案し、他の老中たちもその意見に追従したが、ただ1人忠秋だけが「江戸に浪人が集るのは仕事を求めるためで、江戸から浪人を放逐したところで根本的な問題の解決にはならない」と、性急な浪人追放案に真っ向から反対した。
理にかなった忠秋の言い分が最終的には通り、浪人の就業促進策が取られたという。
その後、幕府は改易をする武断政治から、文治政治に舵を切ることになった。
賄賂
松平信綱は老中首座の座に長い間いたことで、方々からたくさんの贈り物があり、中には賄賂まがいのものもあった。
しかし信綱は賄賂の弊害を知っていたので、ある評議で「このような次第であるから、自分たちは決して賄賂を受け取らないことを宣言しようではないか」と呼びかけた。
他の者たちは賛成したが、忠秋は1人笑うばかりで何も言わなかった。
ただ笑っている忠秋に理由を尋ねると「自分のところにはそういうものを持ってくる者はいないので、宣言する必要はない」と返答したという。
実際には持ってくる者もいたのだろうが、全て追い返していたのだろう。
これを聞いた他の老中たちは自らを恥じて言葉が出なかったという。
これに関連する逸話がある。
忠秋はうずらを飼育することを唯一の趣味にしていた。
ある時、町で良いうずらを見つけたのだが、値段が高かったために購入を諦めてしまった。
するとこの話を聞いた者が、このうずらを手に入れて忠秋に贈った。
忠秋は一度は受け取ったものの、ハッと気付きこのうずらを野に放った。さらに元々飼っていたうずらも全部手放して、これ以降うずらを飼うことをやめてしまったという。
「老中である自分が趣味を持てば、このような賄賂まがいのものを持ち込む連中がやって来て、公私混同になりかねない」と思ったのだろう。
捨て子
忠秋は、たくさんの捨て子を拾って育て上げていた。
そのうち、このことが噂になって江戸中に知れ渡り、たくさんの子どもが忠秋の屋敷の門前に捨てられるようになった。
それでも忠秋は捨て子を育てることをやめなかったため、ついに家臣が「こう捨て子が多いとキリがありません。もうおやめになっては」と進言した。
すると忠秋は「子を捨てたくて捨てる親などいない。捨て子がいるということはすなわち我らの政治が悪いということなのだ。せめてこの子らを立派に育てることで、我らの至らぬところの穴埋めとしたい」と言って、その後も捨て子を育てることをやめなかった。
忠秋は、子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿を見るのが好きだったのだ。
この子どもたちは立派に成長し、阿部家に仕えたという。
おわりに
阿部忠秋は、実に真面目で誠実な老中だった。
明治時代の歴史家・竹越与三郎は
「酒井忠勝や松平信綱などはみな政治家の器にあらず、政治家の風あるは独り阿部忠秋のみありき」
と阿部忠秋を高く評価している。
参考文献:「江戸時代人物控1000」「森銑三著作集 続編第一巻」ほか
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