「らんまん」で万太郎の書斎にうず高く積まれた新聞紙の束。これは採集した植物を乾燥させた押し葉標本です。
牧野富太郎が生涯をかけて収集した標本は約40万枚といわれていますが、そのほとんどが植物を新聞紙に包んだだけの押し葉標本で、完全標本からはほど遠い未整理標本でした。
牧野の死後、それらは東京都に寄贈され、東京都立大学で標本づくりが行われましたが、整理に要した時間はなんと約60年。
なぜそんなにも時間がかかったのでしょうか?
標本整理をしなかった牧野富太郎
そもそも植物標本とは、どのようなものなのでしょうか?
標本作りには、
1.植物を採集し、新聞紙に挟んで乾燥させる
2.採集地や採集年月日、採集者などの情報を記入したラベルを作成し、植物と新聞の間に挟む
3.乾燥させた植物とラベルを、台紙にテープなどで貼る
といった工程が必要となり、完全な植物標本とは乾燥した植物を台紙に貼り、採集地、採取者名などのデータを記載したラベルをつけた形態で保管されているものをいいます。
1.と2.は、植物を採集した本人が行う必要があり、3.の作業は台紙に貼るだけですむので、採集者以外の人でも行える作業です。
特に2.の採集地や日付などの詳細なデータは、採集した本人にしか分からない情報であり、ラベルは標本の命といえます。
牧野富太郎は、標本の整理をほとんどしませんでした。
彼が行ったのは植物を新聞紙に挟んで乾燥させるところまで。自宅に保管されていた標本にはラベルがないだけでなく、植物の同定もされていませんでした。
同定とは、すでに発表されている国内外の文献や過去の標本にあたりながら、採集した植物の種名をあきらかにする作業です。
牧野の残した約40万枚もの膨大な未整理標本にはラベルがなかったので、整理作業は標本に必要な情報を探すところから始めなければなりませんでした。
東京都立大学で行われることになった標本の整理作業
牧野の未整理標本は、自宅の敷地内に建てられた標品館に保管されていました。標品館は、華道家の安達潮花(あだち ちょうか)によって寄贈されたものです。
昭和26年(1951)、文部省によって「牧野富太郎博士植物標本保存委員会」が設置され、30万円の予算を元に、標品館で未整理標本の粗整理が行われました。
標品館の天井まで山のように積み上げられ、ほこりまみれの標本の束の中からは、ネズミの巣がたくさん出てきたと言います。
昭和32年(1957)牧野が亡くなった後、遺族により標本が東京都に寄贈され、東京都立大学に建設された牧野標本館で本格的な整理作業が行われることになりました。
練馬の自宅から、当時世田谷にあった都立大学への搬入は、4トントラック延べ10台、アルバイト学生10人で5日間かかったそうです。
牧野の残した不完全な標本を研究資料として使用できるようにするため、牧野標本館では、標本の鑑定とラベルの作成、台紙への貼り付け等の作業が行われることとなりました。
まず職員やアルバイトの人たちが標本についたゴミを取って掃除をし、虫食いや傷みのひどいものを破棄しました。
その後、採集地、採集者、採集年月日などのデータを、英語と日本語で書かれたラベルで作成するのですが、ここで作業は難局に直面することになります。
困難を極めた整理作業。採集地、採集者が分からない
牧野が残した標本の整理に膨大な時間がかかった一番の理由として、採集地の確定に難航したことがあげられます。
牧野が新聞紙に走り書きした採集地は、「紀伊高野山」「摂津六甲山」といった大雑把な場所で、それを行政区画名に当てはめる作業が必要でした。
また、古い地名しか書かれておらず、市町村合併によって皆目見当もつかなかったり、全国に同じ地名があって、どの県の地名なのかを割り出すのに難儀したりもしました。
どうしても分からない地名の確定のために、各県の市町村に手紙を出して情報を得たり、植物を包んでいた地方紙の古新聞から採集地が判明したりすることもあったそうです。
さらに困ったのは、生前の牧野へ鑑定のために標本を送った人は600人。自宅に保管していた未整理の標本は、果たして牧野自身が採集したのかという疑問も出てきました。
採集地や採集者を確定するためには、その日に牧野がどこにいたのかという情報が必要になります。それには牧野自身の日記やメモ、宿の領収書、旅先から出した手紙、牧野とともに植物採集をした人の日記などが役立ちました。
こうして牧野の行動を一つひとつ明らかにすることで、採集地や採集者などの情報が判明し、ラベルが作成されたのでした。
牧野富太郎が残してくれたもの
牧野が亡くなってから63年が経過した令和3年(2021)、ついに標本の整理作業が終わりました。
通常ハーバリウムと呼ばれる標本室では1枚1点のみ標本を保管し、残りのデュプリケート(重複標本)は他の大学や植物園、博物館などと交換を行います。
牧野は根こそぎ植物を採りまくったという逸話があるように、たくさんのデュプリケートを残しました。
日本全国をくまなく歩いて採集した牧野の標本が海を渡り、海外の標本との交換に使われ、日本のハーバリウムに多くの海外産の標本をもたらしたのです。
若い時から集めた標本を後学のために世に残しておきたいと願った牧野富太郎。
牧野の植物標本は、彼の亡きあと、日本の標本コレクションを増やすことへとつながり、分類学の研究に大いに役立ったのでした。
参考文献:田中伸幸『牧野富太郎の植物学』
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