エピローグ
奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)にある纏向古墳群(まきむくこふんぐん)の6基の古墳から、邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓を探ろうという記事の3回目です。
第1回と第2回はこちらです。
本気で卑弥呼の墓を探してみた! 第1回 纏向古墳群の6つの古墳 【大王墓の謎に迫る】
https://kusanomido.com/study/history/japan/yayoi/73034/
本気で卑弥呼の墓を探してみた! 第2回 「奈良の東田大塚古墳が卑弥呼の墓説」
https://kusanomido.com/study/history/japan/yayoi/73203/
最終回となる今回は、纏向古墳群の盟主墓と目される「箸墓古墳(はしかはこふん)」について紹介・検証を行います。同古墳の被葬者に関しては、戦前に古代史家・考古学者である笠井新也氏が、卑弥呼の墓との提言を行っていました。
しかし、その当時は突拍子もない主張として扱われていましたが、近年の邪馬台国畿内説の高まりに呼応するかのように「箸墓」から新たな発見が相次ぎ、それに対して様々な議論が行われています。
そして、現在では著名な考古学者である白石太一郎氏をはじめとする人々が、同古墳の被葬者が卑弥呼の可能性が高いという主張をしています。
それでは「箸墓古墳」の主は卑弥呼なのか、それとも彼女の宗女(※世継ぎの女性)・台与(とよ)なのか、はたまたヤマト政権の王なのか、検証を試みてまいりましょう。
従来の古墳とは一線を画する箸墓古墳(纏向型との違い)
纏向遺跡の北部に位置する「箸墓古墳」は、全長約280mの「箸墓型(はしはかがた)前方古円墳」です。
このシリーズでは、纏向古墳群の6基の古墳を「纏向型(まきむくがた)前方後円墳」と「箸墓型前方後円墳」の2種類に分けて紹介してきました。
箸墓型と纏向型の違いは、以下の画像で違いがわかります。
その築造時期に関しては、「纏向型前方後円墳」→「箸墓型前方後円墳」という前提ですが、いずれの古墳もあまり調査が進んでいませんので、3世紀の枠組みに収まるというだけで、編年的な確証はありません。
ただ、「箸墓古墳」に先行する古墳は「ホケノ山古墳」「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」の3基に絞っても問題ないでしょう。前述したとおり、「ホケノ山古墳」が「纏向型前方後円墳」、「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」が「箸墓型前方後円墳」になります。
しかし、ここで述べておかなければならないのは、先行する諸古墳と「箸墓」とでは、明らかに一線を画するものがあるということです。言い換えれば、「箸墓」の築造にあたり、古墳としての新たな重要な要素が加えられたと考えられます。
それは、この後に築造される前方後円墳に共通する要素です。
その一つが、墳丘を取り巻く濠(ほり)であり、もう一つが、数段に築かれた墳丘をびっしりと覆う葺石(ふきいし)の存在です。白い葺石で覆われた墳丘は、見る者に神聖な感覚を与えたことでしょう。
ちなみに纏向古墳群で「箸墓」以外で葺石を持つのは、現状では「ホケノ山」のみです。
こうしたことから、「箸墓」は纏向に存在した政治権力に含まれるものの、その権威性において他の古墳を大きく凌駕する存在であったと考えられるのです。
こうした特徴が、同古墳をして、その後の前方後円墳、さらには大王墓の原型といわしめるゆえんなのです。
箸墓古墳の規模と出土した遺物
「箸墓古墳」の規模・構造について紹介しましょう。
全長は前述したとおり約280m。後円部は5段築成で、直径155m、高さ29m。前方部は4段築成で、長さ125m、幅128m、高さ16m。そして、前方部は、三味線の撥のように大きく開きます。この規模は、前方後円墳としては全国で11番目の大きさです。
「箸墓古墳」は、宮内庁が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として管理しているため、墳丘内の調査はできません。
しかし同庁により、墳丘からは葺石の他、特殊器台形埴輪・特殊円筒形埴輪・特殊壺などが採取されています。
これらは、弥生時代後期の吉備地方に起源をもつ葬送儀礼用の供献土器であり、特殊器台の胴部には孤帯文(こたいもん)が施されています。
「箸墓」が、吉備との深い関連性をもつとされるのは、この孤帯文によるのです。
新しい発見により築造年代が遡る
墳丘内の学術調査はできないものの、宮内庁の管理の及ばない墳丘の周辺部の発掘調査は進んでおり、墳丘裾部に沿うように約10mの周濠がめぐっていること、その外側に盛土による外堤がめぐり、さらにその外側に外濠がめぐっていたことが判明しています。
つまり、墳丘は二重の濠により囲まれていたのです。そして、後円部西部には、葺石が施された渡土堤が設けられていました。この付近の内濠からは、4世紀前半とみられる木製鐙が出土しています。
これは「箸墓」が築造された10数年後に、馬に乗った人物が100m近い外濠を越えて、渡土堤から後円部に近づいたことを物語っているのです。
「箸墓」は、従来は3世紀後半から4世紀初頭の築造とされてきました。しかし、1995年の墳丘北西側に隣接する大池の護岸工事に伴う発掘で、3世紀後半の布留0式土器が発見され、西暦280年頃に築造されたと考えられるようになったのです。
同土器の編年は前後10~15年とされますので、西暦260年まで遡れる可能性が出てきました。
これで、卑弥呼の没年である西暦247-248年に近づくこととなったのです。
倭迹迹日百襲姫命伝承の意味
「箸墓古墳」は、宮内庁により「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市陵」に指定されています。
倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇の皇女です。『日本書紀』崇神紀十年には、彼女が夫である三輪山の大物主神の真の姿を見てしまい、驚いて腰を屈めた時にその陰部を箸で突き亡くなったという、有名な「箸墓伝説」が記されています。
このため、彼女の墓は「箸墓」と呼ばれるようになったというのです。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫命が、崇神朝にシャーマン(巫女)として活躍する話が登場します。
このため、彼女を「鬼道」をよく使う卑弥呼に擬する学者・研究者が多く、倭迹迹日百襲姫命の正体を解き明かせば「箸墓」の主は判明するということになります。
では「箸墓伝説」が『日本書紀』に記されている意味は何でしょうか。
ヤマト政権が前方後円墳を造った王権であるならば、その起源譚をヤマト政権の最初の天皇の項に残す必要があったと想定されます。つまり「箸墓」の起源伝承は、ヤマト政権の中では無視できないものであったわけです。
天武朝における『日本書紀』の編纂時において「箸墓」は、朝廷の起源であるヤマト政権のシンボル的存在と認識されていたのでしょう。
「箸墓」の被葬者像の鍵を握る倭迹迹日百襲姫命の正体探しは、また別の機会で詳しく述べたいと思います。
しかし、「箸墓」の被葬者を考えるうえで、そのシャーマニズム的な人物像は重要視すべきではないでしょうか。
箸墓古墳が卑弥呼の墓?様々な説
では、最後に「箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうか」という、謎について検証を行っていきましょう。
同古墳の被葬者として倭迹迹日百襲姫命以外に、名前が挙がっている人物としては「卑弥呼」「台与」「卑弥呼の男弟」「崇神天皇」が代表的です。
「卑弥呼説」を唱える白石太一郎氏は「箸墓」の築造年代を西暦250年代の終わりから260年頃と考え、「箸墓」が日本最古の定型化した前方後円墳であること、卑弥呼と共通する倭迹迹日百襲姫命の墓という伝承を持つことなどを根拠として掲げます。
ただし、その造営には少なくとも10年はかかるとされています。それで「箸墓」を造ったのは卑弥呼の死後に新しい政治連合を構築した後継者たちであり、彼らがこの後、連合内の身分秩序に合わせ大小様々な古墳を造営する体制を造ったとしています。
「台与説」を唱える辰巳和弘氏は、纏向古墳群の編年を庄内0式から布留0式にかけての土器形式によって「纏向石塚古墳」→「纏向勝山古墳」→「纏向矢塚古墳」→「東田大塚古墳」→「箸墓古墳」としてうえで、「箸墓」と卑弥呼は年代が合わないと判断。
『魏志 倭人伝』に共立とされる卑弥呼に対し、立てられたと記される台与の時代は政治的な状況が安定したと推測し、巨大な前方後円墳を築造することができたとします。
「卑弥呼の男弟」「崇神天皇」説は、卑弥呼を助けた弟が、ヤマト政権の初代大王であり「箸墓」に眠る人物とする仮説です。
最古の前方後円墳である「箸墓」は、ヤマト政権のシンボルであり、初代の天皇と目される「はつくにしらすすめらみこと」の和風諡号を持つ崇神天皇こそが、墓の主に相応しいと推測しています。
筆者の私見
最後に「箸墓古墳」の被葬者像について私見を述べて、この記事のまとめにしたいと思います。
『日本書紀』における「箸墓伝説」がある以上、その被葬者は女性と考えて問題ないでしょう。そして、その性格は、宗教的な権威を有していた人物ということになります。さらに「箸墓」の築造年代が最大限に遡っても西暦260年になることは、やはり卑弥呼とは年代的に合わないのではないでしょうか。
そこで、被葬者像として色濃く浮かび上がってくるのが、邪馬台国第2代女王の台与です。近い機会に、この持論を立証する一つの根拠として、倭迹迹日百襲姫命が台与である可能性が高いという仮説をお話ししましょう。
では、そうなると卑弥呼の墳墓はどの古墳なのか?という謎は残ったままになります。現状の調査結果からは、「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」そして「ホケノ山古墳」が有力ではないでしょうか。
ただ、『魏志倭人伝』による記述をもう一度確認したいと思います。そこにははっきりと
「直径は百余歩(約180m)で、約100人の人柱が埋められている」
と記されています。
『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の墳墓は円形状で、少なくともその墓域は180mの範囲を持ち、そこに殉死した者たちも埋葬されていることになるのです。
「箸墓古墳」の東側のエリア、「ホケノ山古墳」がある箸中と呼ばれる地域は、古墳の集合地帯として知られています。そこには、3世紀半ばから5世紀まで、墳丘形や大きさも様々な古墳があります。その多くは、未だ未発掘の状態です。
その中には、西暦250年前後の纏向3類土器を出土する径50mを超えると思われる円墳も存在します。
もしかしたら、多くの考古学者・研究者が見逃しているところに卑弥呼の真墓があるのかもしれません。
纏向遺跡の調査は現状で10%にも満たないとされます。今後の発掘に期待したいですね。
※参考文献
石野博信著 シリーズ遺跡を学ぶ051『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』新泉社 2008年12月
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』新春文書 2019年5月
吉村武彦著『ヤマト王権』岩波新書 2018年12月
白石太一郎著『古墳とヤマト政権』新春文書 2018年9月
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