どうする家康

関ヶ原合戦でも大活躍!信長・秀吉・家康に仕えた兼松正吉の武勇伝【どうする家康】

「関ヶ原合戦図屏風」を見ていると、色んな武将たちが活躍していて面白いですね。

そんな中、家康の本陣近く(屏風右下)に首級を持って来たと思しき武将が何やら言っているのを見つけました。

首級を報告する兼松又四郎。「関ヶ原合戦図屏風」より

恐らく、その首級の値打ち(どこの誰で、どれだけ強くて倒すのがいかに大変だったか等)を語っているのでしょう。

名前を見ると兼松又四郎とのこと。彼こそは織田信長・豊臣秀吉そして「我らが神の君」徳川家康に仕え、数々の戦場を渡り歩いた豪傑・兼松正吉(かねまつ まさよし)に他なりません。

果たして彼はどんな生涯をたどってきたのか、今回はそれを紹介したいと思います。

関ヶ原への道

兼松正吉は天文11年(1542年)、兼松秀清(甚兵衛)の長男として尾張国葉栗郡島村(愛知県一宮市)誕生しました。

兼松氏の祖先は越前国北庄兼松村(福井県福井市)に住んでいたため兼松を称したといいます。やがて兼松正盛(備前守)の代になって思うところあったのか、尾張国へ移住。秀清はその四代の子孫だそうです。

【兼松氏略系図】

……兼松正盛―(3代略)―兼松秀清―兼松正吉―兼松正成―兼松正尾(まさお)―兼松正春―兼松正寔(まさたね)―正紹(まさつぐ)―正尹(まさちか)―正僚(まさとも)―兼松正景―兼松正房―兼松正明―兼松銕太郎(てつたろう)……

※家督継承順に連ねており、血統は異なる場合があります。

※『寛政重脩諸家譜』巻第九百十七 藤原氏(支流)兼松

幼名は千熊、元服して通称を又四郎と言いました。また修理亮とも称していますが、これは朝廷から正式に授かったものではなく官途名(主君から許された官職の私称)でしょう。

若くして信長に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間合戦で初陣を飾って以来、父と共に数々の戦場で武功を重ねたと言います。

歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」

妻には佐分利清家(さぶり きよいえ。弥右衛門)の娘を娶り、永禄6年(1563年)には嫡男の兼松正成(まさなり)が誕生しました。

【兼松正吉の子供たち】

長男・兼松正勝(藤右衛門。生没年不明)……歩行困難のため仕官せず。息子の兼松正直が別家を興す

次男・兼松正成(又八郎。永禄6・1563年生~寛永17・1640年没)……家督を継承し、父と共に武功を重ねる

三男・兼松正行(三吉郎。永禄10・1567年生~天正12・1584年没)……小牧・長久手の合戦で討死する

長女(日下部兵衛妻、夫の討死後に佐高平十郎と再婚)

次女(沢井久左衛門妻)

三女(尾張徳川家臣・榊原勘解由妻)

四女(尾張徳川家臣・西尾助右衛門正房妻)

四男・兼松正広(又兵衛。生没年不明)……尾張家に仕える

※後妻には長谷川右近大夫の娘を娶っているものの、嫡男の正成以外はどっちが生んだか、母親が誰だか判然としません(長男は先妻が生んだと思われますが)。

やがて天正10年(1582年)に信長が横死を遂げると、その次男・織田信雄に仕えます。

天正12年(1584年)に信雄が羽柴秀吉と対立した小牧・長久手の合戦では、嫡男の正成と共に武勲を立てました。

やがて信雄が秀吉の軍門に屈すると兼松一族は秀吉に仕え、正吉は尾張国丹羽郡(愛知県大口町・扶桑町辺り)に知行1,000石を賜わり、黄母衣衆(親衛隊)に抜擢されます。

慶長2年(1597年)に父・秀清が他界、翌慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、豊臣政権内で不和が生じるようになりました。

次なる盟主は家康をおいてない。そう感じた者たちが一人また一人と徳川家に臣従する中、正吉もまた家康に仕えます。

そして慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝に謀叛の疑いありとして家康が挙兵。遠征の途につくのでした。

そんな家康たちの背後を衝こうと政敵の石田三成が上方で挙兵するや否や、家康は待ってましたとばかり踵を返します。

江戸で待機していた正吉は道中の道案内を命じられ、諸将と共に先発隊として兵を進めます。

8月に岐阜城を攻めた折、城内から出撃した敵勢が川をはさんで対陣。正吉は一柳直盛(監物)と共に挑みかかって敵を蹴散らし、みごと敵の首四級を上げました。

そんな中、敗走する敵将の一人・津田藤三郎が殿軍を務め、正吉らの執拗な追撃を見事に防ぎ切ります。

「敵ながら天晴れなり。もはや勝敗の決したれば、今は兵馬を引かるゝべし……」

雌雄の決しないまま互いの武勇に賛辞を贈り合い、再戦を期して兵を引いたのでした。この潔い態度に世の人々は賞賛の声を上げたと言います。

「関ヶ原合戦図屏風」の全体。黄色丸(右下)の辺りで、又四郎がやいのやいの言っている。

続く9月の関ヶ原決戦でも武勇を奮って首一級を上げ、これが屏風の場面というわけですね。

この時の戦いぶりを見ていた家康の四男・松平忠吉(薩摩守)は正吉に惚れ込んでしまい、ぜひ当家に迎えたいと家康におねだり。願いは聞き入れられ、正吉は2,600石で召し抱えられたのでした。

やがて忠吉が世を去ると、今度は家康の九男である徳川義直に仕えます。後に御三家の一つとなる尾張徳川家の初代藩主です。

そして寛永4年(1627年)9月5日、名護屋(名護屋は佐賀県唐津市だが、恐らく名古屋=愛知県名古屋市の誤記と思われる)で世を去ったのでした。享年86歳。

法名は英公、墓所は政秀寺(愛知県名古屋市)にあり、末永く主君を見守るのでした。

終わりに

兼松正吉(画像:Wikipedia/Public domain)

●正吉

千熊 又四郎 修理亮 母は某氏。

織田右府につかへ、三百貫文の地を領し、しばしば戦功あり。右府ことあるののち織田信雄に属し、采地八百石を知行す。天正十二年長久手合戦の時、信雄の命により男正成とともに小牧にあり。この時にあたりて一営賊のためにやぶらるゝのよしその聞えあり。正吉西尾隠岐守吉次に就て東照宮の御聞に達せしかば、すなはち御加勢ありしにより、敵ことごとく引退く。其後豊臣太閤に仕へ、尾張国丹羽郡の内にをいて千石を知行し、黄縨の列たり。慶長三年太閤他界ののち、前田利長東照宮と不快のことありて、豊臣家の臣七人初めて東照宮の麾下に属せむとす。正吉も其列にあり。五年上杉景勝を征伐のときしたがひたてまつる。このとき石田三成謀反の聞えありて御馬を旋さるるにより、正吉おほせをうけたまはりて美濃国の案内者となり、諸将とおなじく台駕に先だちて江戸を発す。八月岐阜城をせめむとするとき、城中より兵をいだし河をへだてゝこれを拒む。正吉一柳監物直盛とおなじくたゞちに河田をわたり奮ひたゝかひしかば敵敗北し、津田藤三郎某殿して引退く。正吉堤にをいてこれを追てすゝみたゝかひ、ときをうつすといへども、雌雄を決せず互に詞をかはしてわかる。其形勢世にこれを美談とす。このたゝかひに正吉首四級をうちとる。九月関原合戦にも甲首一級を得たり。凱旋ののち薩摩守忠吉朝臣の申こはるゝにより、附属せられ、二千六百石を知行し、逝去ののちおほせによりて尾張大納言義直卿につかふ。寛永四年九月五日名護屋にをいて死す。年八十六。法名英公。かの地政秀寺に葬る。 妻は佐分利弥右衛門清家が妻、後妻は長谷川右近大夫某が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第九百十七 藤原氏(支流)兼松

……以上、兼松又四郎こと兼松正吉の生涯を駆け足でたどってきました。

この他にも信長から足半(あしなか。つま先のみ保護する簡易草履)を授かったり、討ち取った敵を仲間と譲り合っていたら首級を獲り損ねたり、面白いエピソードを持っているので、また改めて紹介したいと思います。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原に彼の勇姿を見ることができるのか……楽しみですね!

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

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