北条氏政・氏直父子を滅ぼした豊臣秀吉から、関東への国替えを命じられた「我らが神の君」徳川家康。
生まれ育った三河をはじめ、これまで苦労して切り取った遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を手放して、新天地へと旅立ちました。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』より、関東国替えの様子を紹介したいと思います。
家康に下された抜群の褒美
……さて関白ハ諸将の軍功を論じ勤賞行ハる。 駿河亜相軍謀密策。今度関東平均の大勲此右に出るものなければとて。北条が領せし八州の国々悉く 君の御領に定めらる。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」
時は天正18年(1590年)7月、ついに関東の雄たる北条氏政・北条氏直を軍門に下した豊臣秀吉。今回の合戦に馳せ参じた諸将につき、論功行賞を行いました。
「駿河大納言(家康)のはたらき、こたびの関東平定において右に出る者のない大手柄である。よって北条の所領だった関東八州をことごとく授けよう……」
ちなみに関東八州とは北から上野(群馬県)・下野(栃木県)・常陸(茨城県)・下総・上総・安房(まとめて千葉県)・武蔵(埼玉県+東京都)そして相模(神奈川県)の八ヶ国です。
(※相当する都県は概略です。国境地域など隣県に入っていることもあります)
これまで三河(愛知県東部)・遠江・駿河(まとめて伊豆半島を除く静岡県)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の五ヶ国を治めていた家康にとっては、所領が倍以上に膨れ上がることに。
「有り難き仕合せ!」
「……ただし」
秀吉は釘を刺します。関東八州と引き換えに、これまでの五ヶ国は差し出せと言うのです。
そりゃそうですよね。手柄を立てた者は他にもいるのに、ただ家康にだけ関東八州ポンとくれるなんて、そんな上手い話はありません。
果たしてこの褒美は、吉と出るか凶と出るのか……。
関東八州とは言うものの……
……(秀吉今度北條を攻亡し。その所領ことゞゝく 君に進らせられし事は。快活大度の挙動に似たりといへども。其實は 當家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五国を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆへは関東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇津宮。那須。常陸に佐竹等あれば八州の内御領となるはわづかに四州なり。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」
一方、秀吉の腹づもりはこんな感じ。
「関東八州と東海五ヶ国を引き換えと言えば、大納言めも文句は言えまい」
その与える八州にしても、安房国には里見がおり、上野国には佐野がいます。下野国には宇都宮や那須が、そして常陸には佐竹が居座り続けていました。
彼らが大人しく家康に領国を譲るはずもなく、万が一実力行使に及んだら、惣無事令に違反したかどで徳川を滅ぼす大義名分が出来ます。
そう考えると、実質的に家康が授かった所領は武蔵・下総・上総・相模の四ヶ国に過ぎません。
五ヶ国を差し出して四ヶ国しか得られないでは、一国ぶん丸損になってしまいます。
とは言え、表向きはあくまでも八州。
「好きにしてよいぞ。ただし、あくまでも穏便にのぅ……」
秀吉は内心、笑いが止まらなかったことでしょう。
家康を関東に封じ込めろ!
……かの駿遠三甲信の五ヶ国は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば加藤遠江守光泰を置。後に浅野弾正少弼長政を置。東海道要枢の清洲に秀次。吉田に池田。浜松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山内。駿府に中村を置。是等は皆秀吉腹心の者共を要地にすえ置て。関八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず。また関東は年久しく北條に帰服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案内にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乗じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」
しかも家康がこれまで治めていた五ヶ国は仁政のお陰で領民たちも従順になっており、実に治めやすい土地でした。
秀吉はここと東海道筋に配下の者を配置して、家康を押さえ込む体制を整備します。
- 甲斐国……加藤光泰、後に浅野長政
- 清洲……豊臣秀次
- 吉田……池田輝政
- 浜松……堀尾吉晴
- 岡崎……田中吉政
- 掛川……山内一豊
- 駿府……中村一氏
ここまで強豪を並べれば、さすがの家康もおいそれとは攻め上がって来られないでしょう。
そもそも関東の領民たちは百年以上の永きにわたり北条五代に従ってきました。いきなりやって来た徳川にたやすく従うとも思えません。
領民を調略して一揆を誘発すれば、より力を切り崩せよう。そんな秀吉の企みがありました。
そなた達と力を合わせれば……
……されば御家人等は御国換ありとの風説を聞て大に驚き騒しを。 君聞召。汝等さのみ心を労する事勿れ。我たとひ舊領をはなれ。奥の国にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけるとぞ。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」
「えっ!?」
秀吉からの国替えを聞かされた家臣たちは、その企みを案じました。
「これは我らを潰す謀(はかりごと)に相違あるまい!」
「父祖伝来の所領を捨てて、おめおめと関東へなど下れるものか!」
「じわじわなぶり殺しにされるくらいなら、敵わずとも一戦交えてくりょうぞ!」
……などなど喧喧囂囂。上を下への大騒ぎです。
しかし家康は慌てず騒がず、家臣たちを諭して言いました。
「そのように動じるでない。よいか、わしにはそなたらがおる。百万石ばかりの所領≒軍資があれば、どこにいようと力を合わせ、都へ斬り上がるなど造作もないこと。今はまだ時を待つのじゃ」
「「「殿……!」」」
泰然自若たる家康の態度に、家臣たちは一同安心。心置きなくそれぞれの新天地へと旅立ちました。
終わりに
……果して八州の地御領に帰して後。彌我国勢強大に及び。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて争ふべきにあらざりけり。)又舊領五ヶ国は。秀吉賜はりて旗下の諸将に配分なさまほし。早く引き渡し給はるべしとあり。よて五ヶ国の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召よせ。関東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御発輿ありて。八月朔日江戸城にうつらせ給ひ。万歳千秋天地長久の基を開かせ給ふ。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」
こうして関東への国替えを果たした「我らが神の君」。その後、利根川の流れを変えるなど大規模工事を行い、厄介な湿地帯を生まれ変わらせました。
そして広大な関東平野のポテンシャルをいかんなく引き出し、現代東京の基礎を築き上げたのです。
さすがの秀吉も、家康がここまでやるとは想像できなかったのではないでしょうか。
果たして大河ドラマ「どうする家康」では、家康の江戸づくりをどのように描くのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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