加藤清正のちょっとイイ話
戦国時代を代表する猛将・加藤清正は、朝鮮出兵では「日本最強の武将」と恐れられ、築城の名手としても知られている。
肥後国(現在の熊本県北半国)において、そんな清正を襲撃した男がいた。
戦乱の世、敵方からすれば戦国大名はその標的の筆頭格で、朝昼夜関係なく命を狙われることは当然であった。
しかし、成功する例は稀で、その結果のほとんどは襲撃者が捕縛され、殺されるのが常であった。
例えば、織田信長を暗殺しようとした鉄砲の名手・杉田善住坊は、信長の体に弾が少しかすっただけであえなく失敗した。
捕縛された後は、なんと穴を掘られて首だけを地上に残し、鋸で首を挽き切られるという残忍な方法で処刑されている。
しかし、襲撃し捕縛された者が全員同じような運命を辿るかというとそうでもないのだ。
今回は、加藤清正を襲撃した男・国右衛門の逸話について解説する。
清正の秀吉に捧げた人生
まずは加藤清正について、簡潔に解説したい。
清正は、熊本城に千人もの人を収容できる大きな屋敷を構えていたという。
「築城の名手」として、自身の熊本城や名古屋城の築城に関わった清正は、臨終する慶長16年(1611年)6月24日に嫡子・忠広に1つの遺命を残したという。
その内容は、「この広大な屋敷に、豊臣秀頼様を迎え入れるように」というものであった。
豊臣秀頼は、かつての主君・秀吉の大切な遺児だが、残念ながらこの4年後の大坂夏の陣で、母・淀殿と共に自害している。
しかし「秀頼は密かに大坂城を逃げ出して熊本城に入った」という噂も流れた。(※諸説あり)
この逸話が示す通り、清正は「豊臣家に忠義が厚い人物」というイメージが強い。
清正は秀吉の正室・ねねの親戚の息子で、その縁で秀吉に仕え、幼い時から子どもがいなかった秀吉とねねに、息子同然のように育てられた。
天正10年(1582年)の冠山城攻めで一番槍の手柄を立て、翌年の賤ケ岳の戦いでは「七本槍」の1人として3,000石を与えられ、全国にその名を知られるようになった。
その後も、秀吉の天下統一のために多くの武功を挙げ、時には後方支援部隊も務めたという。
清正は九州征伐においても大活躍し、天正16年(1588年)に肥後国(現在の熊本県北半国)19万5,000石の大名へと大出世した。
朝鮮出兵では1万人の兵を率いて日本軍の先陣とし大暴れした結果、その恐ろしさに朝鮮水軍が清正を呪詛したとも言われるほどだった。
その後、講和条件を巡って石田三成と対立した。三成に讒言された清正は秀吉の怒りを買い、途中で強制帰国になり、更には蟄居の命を受ける。
秀吉から赦免されるも、2度目の慶長の役では大苦戦し、急死の一生の経験を経て帰国したが、秀吉はもうすでに亡くなっていた。
その後、遺恨のあった石田三成の暗殺未遂事件に関与し、家康に近づいたことで家康の養女を娶り、関ヶ原の戦いでは東軍として九州で奮闘した。
戦功を認められた清正は、肥後一国54万石の大大名となった。
精力的に領国経営にあたった清正は領内の4つの河川を大改修し、新田開発を行い、熊本城を築城して城下町を整備し、現在の熊本市の基礎を作り上げた。
しかし、二条城での家康・秀頼会見に臨席した後、その帰りの船の中で倒れて亡くなった。
清正襲撃事件
ある時、清正を狙った襲撃未遂事件が起きた。
その時期の詳細は不明で、清正が肥後国に入った天正16年(1588年)以降だと推測されている。
ある日、清正が鷹狩りに出た道中に、いきなり木陰から1人の大男が飛び出して来た。
狙われた清正はこの時、駕籠の後ろに持たれて居眠りをしていたという。
前日の酒疲れで、清正は周囲の変化に気付けなかったようである。
あまりに突然のことで、清正の家臣たちも何が何だか分からないままだった。
そんな中、その大男は刀を抜き、何と清正の駕籠に刀をぶすりと突き刺したのだ。
刀は駕籠の真ん中に刺さり、襲撃は成功かと思われた。
しかし、酒疲れで駕籠の後ろに持たれて居眠りをしていた清正は、幸いにも難を逃れることができたのである。
事態に気づいた家臣たちは、この大男をすぐに捕縛した。
捕まえた男に素性を聞くと、男はこう返答した。
「拙者は住所も定まっておらず、名字もなく、親も子もなく、国右衛門という者であります」
襲撃の理由を問うと、以下のように答えたという。
「親兄弟は分かりません。ただ我が一門が加藤清正のために滅ぼされたとだけ言い伝えられております。そこで清正を討って仇をはらそうと前々から狙っておりましたが、御威勢に圧されてむなしく月日を送って参りました。これを機会に一太刀なりともと思って踏み込みましたが、御運の強さに負けて本意を遂げることができませんでした。無念千万、言語道断の思いがいたします。早く首をはねて下さい」
国右衛門の余りにも堂々とした立ち振る舞いに清正は感心して、「あっぱれな奴、肝に毛が生えている傑者」と称賛し、助命だけでなくまさかの提案をした。
「わしの家来になれ!」
この言葉を聞いて、一番驚いたのは国右衛門だった。
首をはねられると思っていたところに、まさかスカウトである。こんな有難い話はないが、複雑な思いに駆られた。
国右衛門は、丁重になおかつ正直に気持ちを打ち明けた。
「例え、奉公したとしても長年積み重なったこの思いを消すことはできないでしょう。いつか逆心を持つことは必至です」
こうして国右衛門は「死を命じてくれ」と、再度清正に懇願したのである。
清正の懐の深さ
ここまで開けっぴろげに、将来の逆心まで言った国右衛門をどうするのか?
清正は両目を吊り上げて、大声で国右衛門を叱りつけた。
「お前は今の今まで大剛の者と思っていたが、誠は卑怯千万の臆病者だ。(中略)つい先ほど命を捨てたのではなかったか。本当に命を捨てたのであれば今までの考えは残してはならぬ。その一念をすっぱりと捨て切れぬところが臆病である」
と説教をしたのだ。
この清正の説教に心打たれた国右衛門は、家来になることを決めた。
そして清正は駕籠から降りて、つい先ほどまで自分の命を狙っていた国右衛門に「刀を持て」と腰に差していた刀を渡し、一緒に鷹狩りを楽しんだという。
おわりに
この一件以来、国右衛門は清正の側を離れずに奉公し続け、録も与えられて重宝された。
朝鮮出兵では清正に最期まで付き従い、激戦となった「蔚山(ウルサン)の戦い」の籠城戦にて戦死したという。
加藤清正の懐の深さを感じる逸話である。
参考 : 名将言行録
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