坂田山心中事件(さかたやましんじゅうじけん)とは、1932年(昭和7年)5月に神奈川県中郡大磯町の坂田山で起きた心中事件であり、女性死体盗難事件でもある。
ある若い男女が心中したが、その後なんと女性の遺体が消えており、心中事件から一転して「女性の死体が持ち去られる猟奇事件」へと発展した。
その後、なんとこの事件が映画化されて一大ムーブメントを巻き起こし、多くの心中・自殺騒ぎを誘引することとなる。
今回は、図らずも大人気となってしまった坂田山心中事件と、自殺と心中が全盛だった当時の社会についても掘り下げていきたい。
若い男女の心中死体
昭和7年(1932)5月9日午前11時頃、湘南大磯町坂田山頂で昇汞水(塩素と水銀の化合物に食塩を加えて水に溶かした猛毒の液体)を飲んだ男女の心中死体が、地元の人によって発見された。
男性は慶応の制服制帽を身に着けており年は20代半ば、女性は20代前半の令嬢風であった。2人は林の中で横たわっている状態であったという。
現場の山の名前は「八郎山」といったが、東京日日新聞(東日=現・毎日新聞)の記者が「詩情に欠ける山名」としたことで、大磯駅近くの小字の地名を使い「坂田山心中」と命名したという。
2人の身元は家族や友人によってすぐに判明した。
男性は芝区白金三光町(現・港区)、華族の家系に生まれた慶大経済学部3年生、調所五郎(24)で、女性は静岡県駿東郡富岡村(現・裾野市)の資産家の家に生まれた令嬢、湯山八重子(21)であった。
2人は三光教会で知り合ったらしく、八重子が頌栄女学校生徒の時に2人は恋仲になった。八重子が郷里に帰った後も2人は文通を続け、夫婦となる約束をしたという。
五郎は両親から承諾を得たが、この時八重子は地元の牧師との縁談が進められており悩んでいた。
心中は八重子が持ちかけて五郎がそれに応じたとされ、五郎の遺書も発見されている。
盗まれた美女の遺体
翌日5月10日、大磯の墓地に仮埋葬されていた八重子の遺体が何者かに盗まれており、そのことが新聞に報じられるとビッグニュースになった。
大磯では「女優のように美しい女性の心中死体が全裸にされて持ち去られた」ということで大騒ぎになったという。
警察は、心中の現場や仮埋葬の場に現れた野次馬の中から300人余りの人々を取り調べた。さらに警察が「心中事件の恥を隠すために湯山家が八重子の遺体を盗んだのではないか」と疑ったことで、無遠慮な新聞記者が家に押しかけ、八重子の家族を犯人のように扱ったという。
しかし、11日に八重子の全裸遺体は大磯海岸の船小屋の砂中から発見された。
警察はその手口から遺体埋葬に慣れた人物に容疑をかけた。
その後、ある1人の埋葬作業員が厳しい取り調べを受けて自白したが、犯行を裏付ける証拠はなかった。
そして18日、火葬場作業員リーダーの65歳の男がとうとう犯行を自供したのだった。
男は取り調べにおいて「資産家の令嬢が心中したことを聞き、それから埋葬場所を知った。異常な興奮を覚えて女の遺体を船小屋まで運び、全裸の遺体を愛撫したり局部を見たりした」と述べたという。
男は裁判で有罪となったが、死ぬ直前に「あれは違う」と言ったとされ、本当に男が真犯人だったのかは謎である。
映画化
世間から爆発的に関心を集めたこの心中事件は、松竹で映画化された。
5月13日付の東日新聞の見出しである「天国に結ぶ恋」が映画の題名となった。
事件の代名詞となるこの見出しは「純愛映画の題名としてぴったりである」とされたのだ。
映画のスタッフ、キャストは大磯の現場などを訪れて撮影し、映画は1ヶ月足らずで完成した。
6月に東京・浅草の帝国館などで封切られ、映画は大ヒットとなり封切館では3週続映になった。
レコード業界も作品の人気に目をつけ競作になった。ビクターやタイヘイレコードなどでそれぞれレコードが発売されたが、ビクター盤が圧倒的に大衆に愛唱され、「2人の恋は清かった 神様だけがご存知よ」という歌詞が人々に口ずさまれたという。
八重子の遺体が海岸で発見された後、大磯署長と裁判医が「純粋無垢の処女であった」と発表したことから、この心中事件はより一層美化されたと考えられている。
一部の資料では、裏付けはないものの「八重子が妊娠していた」とも記述もあり、それを「純愛伝説」として祭り上げたのは新聞と映画、レコードなどのメディアミックスの力であった。
身近な死
この事件がメディアで大人気となったことで、その後、自殺志願者が続々と「坂田山」を目指すようになった。
神奈川県警察部刑事課調査の「情死調」という表によると、昭和7年(1932)中に起きた県下の心中事件は59件で、その内訳は恋愛関係40件、生活苦6件、病気6件、家庭不和4件、不明3件となっている。
特に「恋愛関係にあっても夫婦になれないことを悲観しての心中」が全体の7割近くを占めており、ロマンチックな歌調に陶酔し主人公のあとを追うように自殺する者が続いたという。また、地元の大磯の開業医は、坂田山で服毒心中しようとした志願者約600人の生命を救ったという。
映画館では作品を見ながら昇汞水を飲む若者まで出てきて、映画監督の五所平之助は「大変困ったことになった」とコメントしている。
地方では上映を禁止した県もあったという。
しかし、大磯は一躍「恋のメッカ」「心中の大磯」といった場所となり、名物の夫婦饅頭なども売られ、心中現場を見に来る人々であふれていたという。
当時は自殺と心中が「全盛」で、死のムードが社会に漂っていた。
厚生省(現・厚生労働省)の統計によると、1932年の全国の自殺者は1万4700人にのぼり、人口10万人当たりの自殺率は22.2人である。これは2010年代後半のデータよりも多いものになっている。
原因として、まず昭和初期が世界恐慌のあおりを受けた不景気時代であったことによる「経済の問題」、そして社会の中で影を潜めていたとされる「人の命のつまらなさ」といった考えによる「生命観の問題」があったという。
他にも当時は結核により命を落とす人が多く、若者にとって死は遠い将来のことではなく、極めて身近なものであったのだろう。
純愛を求める人々
この心中事件が新聞紙面をにぎわせていた最中に、犬養毅首相が暗殺される五・一五事件が起きた。
この時代の日本人の多くは、混乱の続く世相の下で猟奇的な事件展開への興味と同時に、「死による純愛の成就」を心情的に求めていたとされる。
当時の国民にとっては、事件の真実は分からなくても八重子には「純潔」であってほしいという思いがあり、戦争への不気味な予感から先が見えなくなりつつある中で、たとえフィクションであっても「純愛を貫き自ら死を選ぶ物語」が強く求められていた。
それは時代の流れへの反発と、メディアによる扇動が働いていたと考えられる。
参考文献 戦前昭和の猟奇事件 文藝春秋
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