織田信長の普段について
強烈なカリスマ性で「戦国の覇王」と呼ばれ、様々なアイデアで数々の戦で勝利をあげて天下人まであと一歩のところまで迫った織田信長。
信長は「荒くれ者」「冷酷非情な男」「人の意見を聞かない独断的なリーダー」など、かなり怖い人物というイメージがあるが、実際に信長に何度も会っている宣教師・ルイス・フロイスは「時々激昂したが平素はそうでもなかった」と書いている。
戦国の覇王と呼ばれた織田信長は、普段どんな男だったのか?その素顔について掘り下げていきたい。
信長の体格や食生活など
信長の体格は、京都の大徳寺にある等身大の木像からの推察で、身長は166~169cmで細見だったと考えられている。
当時の男性の平均が157cmと言われており、少し大きい方であったと思われる。
毎日だいたい朝4時に起き、自己の鍛錬と馬の調教を兼ねて4km先まで馬で往復をしていたという。
食生活はとても質素で、好んだ料理は簡単に食べられる湯漬けで、これにクルミ入りの焼き味噌を添えるのを好み、酒を飲まずに食を節制していた。
また、干し柿も好んでよく食べていた。
尾張出身だけに味の好みは濃い口で、京の料理人を「まずい」と言って首をはねようとしたという逸話もある。
また、かなりの綺麗好きでしかも潔癖症だった。
掃除にはかなり力を入れて、城の内外を長い時間をかけて掃除させたという。
好奇心旺盛
好奇心が旺盛だった信長は、南蛮人とよく接して様々な献上品をもらっていたが、その全てを受け取っていた訳ではなかった。
宣教師から機械式時計を献上された時に、大いに感心しながらも「複雑すぎて動かし続けることは難しく駄目にしてしまうだろう」と言って断ったという。
信長が興味を持ったのが帽子や衣服などの身に付けるもので、ルイス・フロイスがマントをまとって現われると「そちの衣装は華麗な印象を与える」と言って褒め、マントを気に入り、上杉謙信にマントを送ったこともあった。
信長は馬揃え(軍事訓練)に南蛮帽子をかぶって現れたという。南蛮人の衣装を身に付けることで特別な存在であることを知らしめようとしたのだ。
また、信長は人の輪に入ることが好きで、お祭りでは領民たちと一緒に盆踊りを楽しんだという。
サプライズも好きだったようで、1人の宣教師が日本を離れることになった時に、思い出作りとして安土城を松明でライトアップするという派手なこともやっている。
趣味
信長は多彩な趣味を持っていた。
その1つは鷹狩りだが、信長の鷹狩りはかなり実戦的で明らかに合戦の演習を兼ねていたという。
信長の鷹狩り好きは当時も広く知られており、外交交渉で鷹を贈り物として貰うことも多かった。
鷹は猫やニワトリを餌にするので、信長が奈良に行った際には「奈良中の猫やニワトリが安土に持っていかれる!」と、奈良の人たちが寺に猫を隠したという逸話もある。
参考記事 : 信長からネコやニワトリを守れ! 戦国時代の無慈悲な出来事とは?
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/70458/
大の相撲好きとしても有名で、実際に相撲大会を何回も主催し、成績が良い者には豪華な賞品やお金を渡し、強い者は召し抱えて家臣にしていた。
また、竹相撲(両者が竹の両端を引っ張って腕力を競うもの)も好きで、なかなか決着がつかずにいると、信長は褒美として東から来た者に「東」という苗字を、西から来た者に「西」という苗字を与えたという。一説にはこれが大相撲の番付が東西に分かれた起源だとされている。
信長の一番の趣味と言われているのが茶の湯だった。
名物と言われる茶器を集めて自身の権威を示すと共に、家臣たちに戦の褒美として与えていた。
その時に茶会を開く権利も与えられるので、家臣は領地よりも茶道具を与えられることを望むほどであった。
最も愛した女性
信長には正室の帰蝶(濃姫)がいたが、子どもはいなかったとされ、結婚後の帰蝶に関する記録はほとんど残ってはいない。
帰蝶の父・斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれて亡くなったことで、織田と斎藤との同盟が事実上決裂した。
この時に、離縁したのではないかとも推測されている。
信長には8人以上の側室がいたが、その中で最初に側室になったのが生駒吉乃(いこまきつの・いこまよしの)だ。
吉乃は信長が一番愛した女性とされ、長男・信忠、次男・信雄、長女・徳姫を産んだとされている女性である。
※一説には信忠と徳姫は吉乃が産んでいないという説も。
徳姫を産んだ後に吉乃は産後の肥立ちが悪く病に伏せることが多くなったが、この頃、信長は戦に明け暮れていたために、5年近くも吉乃が病に伏せていたことを知らずにいた。
小牧山城が完成すると、信長は城の「御台御殿」に吉乃を移住させるように生駒家に伝えたが、吉乃の兄・生駒家長は「吉乃の移動は難しい」と話し、そこで信長は初めて吉乃が病気だと知ったのである。
信長は自ら生駒家に赴き、吉乃の身分では乗ることができないほどの立派な輿で吉乃を小牧山城に運んだ。
そこで信長は家臣たちに「嫡男・信忠の生母だ」と言って吉乃を披露した。
正室・濃姫との間に子どもができなかったので、吉乃は正室と同格の扱いを受けたという。
信長はそれから足しげく吉乃のもとを訪ねるようになったが、小牧山城に移って1年ほどした永禄9年(1566年)5月13日に吉乃は亡くなってしまった。
信長は人目もはばからず、3日3晩泣き続けたという。
おわりに
織田信長は領民と盆踊りを踊り、宣教師の衣装に目を輝かせ、一人の女性を熱心に愛する人間味溢れる一面があった。
しかし、広く知られるような非情な一面も持ち合わせている。
この極端に相反する性質が、覇王・信長の神秘的な魅力だったのかも知れない。
参考 : フロイス「日本史」
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