1858年1月30日、一隻の船が水の上に浮かんだ。
船の名は「グレート・イースタン」。当時世界最大の蒸気船である。
グレート・イースタンは同時代の技術水準をはるかに上回る画期的な船だった。しかし、その革新性が仇となり、多くの災難に見舞われてしまう。
今回は、数奇な運命を辿った蒸気船グレート・イースタンについて、詳しく見ていこう。
建造の背景
グレート・イースタンの設計者は、19世紀のイギリスを代表する技師イザムバード・ブルネル(1809~1859)である。
鉄橋や駅舎の設計・鉄道網の整備・トンネルや機関車の建造など、土木工事や建設の分野で多大な業績を残した人物だ。
彼は生涯に3つの蒸気船を設計している。
1隻目は「グレート・ウエスタン」である。
ブリストル(イギリスの港湾都市)とニューヨークを結ぶ大西洋横断航路のために造られた木造蒸気船で、この航路を定期航行した初の蒸気船となった(元々は、「蒸気の力のみで大西洋を横断した世界初の船」になることを目指して造られたのだが、数時間の差でライバル社に敗れた)。
2隻目は「グレート・ブリテン」である。
この船も大西洋航路のために造られたが、グレート・ウエスタンとは異なり、鉄製の船体を持っていた。1845年、鉄製蒸気船として初めて大西洋横断に成功した。
そして、ブルネルがそれまでの集大成として最後に手がけた船こそ、鉄製蒸気船グレート・イースタンだった。
グレート・イースタンの革新性
グレート・イースタンは様々な点で革新的な船だったが、なかでも特筆すべきは「船体の大きさ」である。
同時代の蒸気船の全長はせいぜい100メートル前後で、総トン数(重量ではなく容積を示す指標)は4000トンにすら達していなかった。
対するグレート・イースタンは、全長211メートル・総トン数18915トンという桁外れの規模を誇る。
これほどまでに船を大きくしたのは、長距離の航海を可能にするためだった。というのも、グレート・イースタンは元々、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路のために造られた船なのである。
当時、蒸気船でイギリスからオーストラリアに行くためには途中で燃料補給をしなければならず、多額の費用がかかった。
ブルネルは補給なしでの航海を実現できないかと考え、大量の石炭を積みこめる大型船建造のプランを練った。
そうして造られたグレート・イースタンは、オーストラリアまで直行できる唯一の蒸気船となった。
このように時代の先を行っていたグレート・イースタンだが、不運にも先を行きすぎていた。その巨大さゆえに、グレート・イースタンは数々のトラブルを引き起こすことになる。
大きすぎた蒸気船
・破産危機
グレート・イースタンの建造には多くの設備と人手が投入されたにも関わらず、完成までに5年もの年月を要している。
結果、経費が膨れ上がり、船の建造を担当した会社は破産寸前にまで追い込まれた。ブルネルは新会社を立ち上げ、資金を集めるはめになった。
・進水式の失敗
新しい船を初めて水に触れさせる式典を「進水式」という。
冒頭にも書いたように、グレート・イースタンが水に触れたのは1858年1月30日だが、これは初めての進水式ではなかった。それ以前にも進水式は何度か行われたが、全て失敗に終わったのだ。原因はやはり、船体の大きさだった。
進水には2種類の方法がある。
1つは、水を抜いたドック(水際に造られた船を入れるための設備)で船を建造して、あとから水を注ぎこむ「ドック進水」。グレート・イースタンは大きすぎてドックに入らず、このやり方は使えなかった。
そこで、もう1つの方法である「船台進水」が採用された。これは、斜面を利用して船を滑らせ、水辺まで船を運ぶ方法である。通常は船尾を水に向けて船を滑らせるのだが、グレート・イースタンは船体が長かったので、横向きで滑走させられた。
残念ながら関係者の努力むなしく、船は斜面の途中で停止。ウインチの牽引すら効果がなく、進水式は失敗続きとなった。最終的には、風と大潮の助けを借りて進水にこぎつけた。
・入港不可能
なんとか進水を終えたグレート・イースタンだが、それから1年以上、就航の機会は訪れなかった。「船がまだ完成していなかった」のも理由の一つだが、「船が大きすぎてほとんどの港に入れない」という由々しき事情もあった。
・帆
グレート・イースタンは、動力装置の面でも並外れた船だった。
蒸気船には通常、船の側面に装着する「外輪」か、船尾に付ける「スクリュープロペラ」のいずれかが推進器として使われるが、グレート・イースタンはその両方を備えていた。しかも、外輪とスクリュープロペラはそれぞれ別の蒸気機関で駆動していた。
おまけに、船体には6本のマストが立っており、帆で風を受けることすらできた。動力装置を3つも持っていたわけだ。
ところが、船が大きすぎたせいで、風力では船を動かせないことが進水後に判明。帆は無用の長物となってしまった。
・赤字経営
グレート・イースタンにとっての最大の不幸は、当初予定されていたオーストラリア航路で使われなかったことだ。
オーストラリア航路の需要の減少、会社の財政難、船の損傷といった事情があいまって、グレート・イースタンは大西洋航路に回された。
だが、大西洋航路はすでに供給過多となっており、4000人の乗客を収容できる巨大船を満員にするのは不可能だった。記念すべき初の航海(1860)ですら、乗客は100人に満たないという悲惨な結果に終わっている。
営業航海は赤字が続き、1864年には会社が倒産。グレート・イースタンは競売にかけられた。
奇跡の復活
客船としては実績を残せなかったグレート・イースタンだが、売却先で予想外の復活を遂げる。
「大西洋を横断する電信用海底ケーブルを敷く」という役目を与えられたのだ。
この敷設作業では、合計3000キロメートル以上のケーブルを敷かなければならず、大量のケーブルを積みこめる船が必要とされた。その点、グレート・イースタンはぴったりだった。デメリットでしかなかった巨大さが、ついに生かされる時が来たのだ。
グレート・イースタンはこの大役をまっとうし、海底ケーブルの敷設に成功。以後、ケーブル敷設船として活躍を続けた。
※参考
ニック・ヤップ(2008)『世界を変えた100日 写真がとらえた歴史の瞬間』村田綾子(訳)
ゲリー・ベイリー(2019)『世界をうごかした科学者たち 工学者』本郷尚子(訳)
アティリオ・クカーリ,エンツォ・アンジェルッチ(2002)『船の歴史事典 コンパクト版』堀元美(訳)
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