『三国志演義』は、三国時代の英雄たちが割拠する群雄劇であり、史実をもとに大きく脚色された小説ではありますが、読み物としては非常に優れています。
そんな中で、最も悪役らしい存在として登場するのが董卓です。
董卓が洛陽で行った暴政は、漢王朝の力が大きく衰退する要因でもあったでしょう。しかし『正史』ではそこまで悪役と言えるような存在ではなかったのかもしれません。
今回は、『正史』の董卓について掘り下げ、もしかしたら良い面を持っていたのかもしれないという可能性を追求していきます。
『正史』での董卓
基本的に董卓は『正史』においても悪党扱いです。
しかし、一部の行動は一考の余地があるかもしれません。今回参考にしたのは史料価値が高い『正史三国志』『後漢書』『資治通鑑』、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた『世説新語』です。
これらの史料には共通して「董卓が漢の末期に権力を握り、皇帝を幽閉して傀儡とした」といった記述があり、董卓は「乱臣賊子」として明確に描かれています。この「乱臣賊子」とは、国に反乱を起こす不忠な臣下や、親に対して不義を働く親不孝な子供を指す言葉であり、まさに董卓の行動を象徴する言葉と言えるでしょう。
しかし、当時の習慣や価値観を考慮すると、別の視点から董卓を評価する余地もあります。
羌族への優しさ
ここでは董卓と羌族(きょうぞく)の関係性に注目してみたいと思います。
『正史』の『董卓伝』には「董卓は若い頃に羌族の地域を旅していた際、羌族の顔役たちと交流して親しくなった」「羌族の顔役が董卓を訪ねてきた際には、耕牛を殺して宴会を開いてもてなした」といった記述があります。
当時の漢民族にとって、羌族は力を持って侵略してくる敵でした。 そのため一部の漢民族からは差別や蔑視の対象とされることがよくありました。 しかし董卓は、異民族である羌族を若い頃から受け入れていたのです。
当時の地域的な環境変化により、漢民族が住む地域に侵食してくる羌族もいましたが、董卓が統治していた地域では羌族との共存がうまく行われていたようです。
少なくとも、董卓は異民族に対して差別や区別の考え方を持っていなかったことがわかります。
一部の処刑は仕方なかった
『正史』において、董卓が多くの人間の死に関わっていることは事実です。
しかし、その中には必ずしも董卓の暴虐とは言えないものもあります。いくつか例を紹介いたします。
① 侍中の周毖(しゅうひ)を斬首
侍中の周毖は、当初董卓に信頼されていましたが処刑されています。
その理由は、周毖が董卓に推挙した人材が次々と裏切ったことによるものでした。当時の中国では人のつながりが重要であり、推挙によって人材を確保していました。しかし、その人材たちが裏切りなどの重大なトラブルを引き起こした場合、推挙した者が処刑されることはよくありました。
これは秦の法律に由来し、後漢時代にも残っていたとすれば、董卓の行動は仕方なかったと言えるでしょう。
② 侍中の伍瓊(ごけい)を斬首
伍瓊も董卓に処刑されましたが、そもそも伍瓊は周毖と共に裏で袁紹と通じており、董卓を暗殺しようとしていた可能性がありました。
③ 村祭りを行っていた民衆たちを皆殺し
これは董卓の暴虐の中でも有名な逸話ですが、そもそも当時、村祭りは略奪行為につながる可能性があったため、法律で禁止されていたという説があります。つまり董卓の行動は法に則ったものでした。
④ 少帝の廃位と殺害
こちらは董卓の最大の悪事とされていますが、霊帝が没した後の洛陽の混乱の中で、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と弟の劉協(後の献帝)を救出しています。
そして少帝はろくに会話もできないほど暗愚で、弟の劉協は非常に聡明でした。
つまり、董卓なりに漢の未来を考えて、暗愚な少帝を廃位して劉協を立てたと考えられます。
もし董卓にもっと野心があったならば、かつての秦の宦官・趙高のように、暗愚な帝を意のままに操った方がずっと都合が良かったはずです。
この一例をもってしても、少なくとも董卓は人を見る目があり、趙高ほどの野心家でなかったことが窺えます。
董卓なりに善政を行おうとしていた?
これは人事にも表れています。
董卓は政権を掌握した後、前述した侍中の伍瓊や周毖、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事を任せ、荀爽を司空、韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史に任命するなど、自分の息のかかった者ではなく、当時の名士たちを取り立てています。
また、かつて宦官たちに敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとりました。
さらに洛陽から逃げ出した袁紹を追討せず、逆に勃海太守に任命するという懐の大きさも見せています。
最後に
董卓は、三国志において最大級の悪役とされていますが、当初は董卓なりに善政を行おうとしていたのかもしれません。
また、当時の漢帝国は十常侍を中心とした宦官たちの専横で腐敗しきっており、全土で黄巾の乱が起こるなど大混乱の最中でした。董卓軍が洛陽に入城したことにより結果的に十常侍は壊滅し、聡明な劉協が皇帝となりました。これは董卓の大きな功績と言えるでしょう。
しかし、その後の反発は大きく、袁紹を始めとした反董卓連合軍との戦いとなり、最終的には司徒の王允と、養子としていた呂布に謀られて暗殺されてしまいました。董卓は王允と呂布をとても信頼していたそうです。
董卓は少なくとも洛陽入城までは、漢の将軍として国のために働いていました。当時最大級の都だった洛陽に入り一気にトップとなったことで、舞い上がりすぎてしまったのかもしれません。
参考 : 『正史三国志』『後漢書』『資治通鑑』『世説新語』
農耕用の牛をころすのは重罪だったって聞いた事がある