孫策と周瑜の早世について
三国志の時代には多くの英傑が登場したが、当時の医療技術の未整備や戦乱のために若くして命を落とす者も少なくなかった。
中でも、呉の孫策と周瑜はその才能で名を馳せたが、若くして世を去った英雄として知られている。
孫策は「江東の小覇王」として知られ、その勇猛さと決断力で短期間に広大な領地を手中に収めた。
一方、周瑜は「美周郎」と称されるほどの美貌と、「天才軍師」としての名声を持ち合わせ、卓越した戦略家としてその名を馳せた。彼らは義兄弟の契りを結び、互いに助け合いながら、乱世を駆け抜けた。
今回は、孫策と周瑜の死因について『正史』と『三国志演義』の記述を比較しながら、その真相に迫ってみよう。
孫策の死因を「正史」と「演義」で見比べる
まず、孫策の死因と死に際について『正史』と『三国志演義』の違いを見ていこう。
『正史』での死因と死に際
死因:許貢の残党による襲撃で受けた致命傷
死に際:弟の孫権に後を託し、張昭を補佐役に指名
『三国志演義』での死因と死に際
死因:許貢の残党の襲撃による負傷と、道士于吉の呪いによる衰弱
死に際:弟の孫権に後を託し、張昭を補佐役に指名
正史では、孫策は許貢(きょこう)勢力の残党による襲撃で致命傷を負ったとされている。
一方、演義ではその負傷に加えて「于吉の呪い」による衰弱が死因として描かれている。この点が『正史』と『演義』の違いであり、フィクションで脚色された箇所と言えよう。
【三国志】 孫策を呪い殺した仙人 「于吉」の謎
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そしてどちらの場合も、死に際に弟の孫権に後を託し、張昭を補佐役に指名したことは共通している。
許貢と孫策の関係
許貢は後漢末期の官僚であり、呉郡太守を務めていた。彼は孫策が独立を果たした時期に対立していた。
孫策は急速に勢力拡大したが、その反面、滅ぼされて孫策に恨みを持つ勢力も増えていった。
許貢も孫策に敗れた勢力の一人であり「孫策の武勇は項羽に似たものがあり、朝廷に置いて囲うべき」と書いた上奏文を朝廷に送ろうとしたが、それを知った孫策は激怒した。
孫策は許貢を絞首刑にするが、これにより許貢軍の残党は孫策に対する復讐心を抱き、最終的に襲撃することとなった。
このように、孫策の死因に関しては「于吉の呪い」の脚色以外では『正史』と『演義』であまり違いがないと言えそうだ。
周囲の死因を「正史」と「演義」で見比べる
次に、周瑜の死因と死に際について『正史』と『三国志演義』の違いを見ていこう。
『正史』での死因と死に際
死因:病死説、戦傷説、暗殺説がある
死に際:関中の馬超と手を組んで襄陽を攻めようとしている最中に急逝
『三国志演義』での死因と死に際
死因:病と諸葛亮の挑発によるストレスが原因
死に際:諸葛亮の挑発を受けた書状を読んで憤死
正史では、周瑜の死因について複数の説がある。
これは「病死」「戦傷による致命傷」、または「劉備の刺客による暗殺」などが挙げられる。
周瑜が亡くなったのは36歳であり、孫策よりも長生きしたものの、それでも早逝と言える。
三国志演義における周瑜の描写
『三国志演義』では、蜀の劉備や諸葛亮が主人公として描かれているため、その他の人物は脇役として扱われることが多い。
その中でも特に周瑜は、諸葛亮との対比で描かれることが多く、その才能や功績がかなり過小評価されている。
実際に赤壁の戦いでは、周瑜が諸葛亮の策略に翻弄され、病を患い、さらに諸葛亮の挑発によってその症状が悪化し、最終的に憤死するという、なんとも残念な姿で描かれている。
これは、史実とは大きく異なり、周瑜の実力を過小評価するものだ。
あくまで赤壁の戦いにおける主将は周瑜であり、諸葛亮は孫権との同盟を強固にするための外交活動に従事はしていたが、戦闘指揮に直接関与したという記述は正史にはない。
魯迅をはじめとする後世の文人や研究者たちは、演義における周瑜の描写については「史実を歪曲しすぎている」と批判している。
演義はあくまでも小説であり、史実と異なる部分があるのは当然であるが、周瑜はあまりに史実と異なる描写となっているのだ。
最後に
孫策は26歳、周瑜は36歳で亡くなったが、もし彼らが長生きしていれば、三国志の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
孫策の苛烈な支配や周瑜の軍略が、彼らの若さと相まって、後世に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。史実と小説の違いを理解しながら、彼らの真の姿を見つめ直すことは、歴史を楽しむうえで大切なことだろう。
参考 : 『三国志演義』『正史三国志』
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