幕末明治

『日本に存在したスラム街』 明治に貧民たちを救った「残飯屋」 ~豚の餌で飢えを凌ぐ

かつて日本には「貧民窟」とよばれるスラム街があり、東京の下谷万年町(現在の上野駅近く)、芝新網町(浜松町駅近く)、四谷鮫河橋(赤坂御所近く)は、「三大貧民窟」と呼ばれた大スラムでした。

ジャーナリストの松原岩五郎は貧民窟に潜入取材し、数々のルポルタージュを新聞に連載しました。彼の書きあげた渾身のルポはまとめられ、『最暗黒の東京』という一冊の本になっています。

明治中期における下層民の生活実態を克明に描いた『最暗黒の東京』から、貧民たちの命をつないだ「残飯屋」を紹介します。

残飯屋とは

明治に貧民たちを救った「残飯屋」

画像.残飯屋の家屋.『最暗黒之東京』(民友社,明26)より

残飯屋とは、軍隊や病院、寄宿舎のある学校で出た残飯を安価で仕入れ、貧民に売りさばく商いです。
残飯屋がいつ消滅したのか定かではありませんが、明治時代から第二次世界大戦直後まで存在しました。

明治中期、自炊ともなれば一日30銭かかるところが、残飯であれば一日14、5銭で家族5人が十分に食べていけたそうです。

その日暮らしの貧民には、薪や炭を買う余裕がありません。調理の必要のない残飯は、彼らと切っても切れない関係だったのでした。

松原岩五郎の「残飯屋」潜入取材

明治に貧民たちを救った「残飯屋」

画像. 残飯屋で飯を買う貧民. 『最暗黒之東京』(民友社,明26)より

松原岩五郎は貧民窟の実態を探るため、大スラム「四谷鮫河橋(よつやさめがはし)」の残飯屋で働きはじめます。

市ヶ谷にある陸軍士官学校で食事の余り物を仕入れ、貧民たちに売る仕事を任された岩五郎は、相棒と二人で毎日朝昼夜の三度、大きなざるや桶、醤油樽などを大八車に積んで出かけて行きました。

ひとざる(飯量がおよそ15貫目、1貫目は約3.75kg)を50銭で引き取り、これを1貫目につき6銭くらいで売ります。
その他にも、付属物として無料で払い下げられた残り物のおかずや沢庵の切れ端、野菜、魚類の屑なども商品として売りさばきました。

千人を有する学校ともなると残飯の量も多く、汁物やたくあんの切れ端、パンのくず、焦げ飯などをそれぞれの器に入れて荷造りすると、一小隊ほどの量になったそうです。

大八車に山積みの残飯を乗せて戻ってくると、店の中は黒山の人だかりで、いざ販売が始まると、貧民たちはざるやどんぶりを突き出して「二銭ください」「三銭おくれ」と争うように残飯を求めたそうです。

焦げ飯は「虎の皮」、漬物の切れ端は「株切(かぶきり)」など、しゃれた名前をつけられた残飯は飛ぶように売れて行きました。

汁ものは桶から汲んで与え、煮しめや沢庵は手づかみで。ご飯は一応、秤(はかり)にかけるのですが、面倒な時は目分量で適当に売るのが常でした。

豚のえさで飢えをしのぐ貧民たち

明治に貧民たちを救った「残飯屋」

画像. 貧民を集めて殻を施与す. 『最暗黒之東京』(民友社,明26)より

残飯はいつも潤沢にあるわけではなく、ある時、三日間仕入れがまったくできないことがありました。

岩五郎は、貧民たちを飢えさせたくないという一心で、賄い方(まかないかた)に「パン屑でもなんでもいいから売ってくれ」と頼み込みます。

すると賄い方は、「屑屋に出そうと思っていた豚のえさ用の餡殻(あんがら)と、畑の肥料にするジャガイモのくずならあるよ」と言うのです。

いも類で作られた餡殻は、腐りかけてすえた匂いを放っています。岩五郎はためらいつつも「これで飢えを解消できるなら」と、餡殻と洗った釜底のすえた飯、それに味噌汁の絞りかすをもらい受け、店に戻りました。

今か今かと待っていた貧民の前に、およそ人間の食べ物とは思えない品々が並べられます。

岩五郎が餡殻を「キントン」と名付けると、すかさず店の主人がこれは高価で珍しいおかずなのだと語り始め、「キントン」には一椀五厘の値が付けられました。

結局これらもすぐに売り切れてしまい、貧民たちの腹を満たすには足りませんでした。

松原岩五郎の真意

画像. 高輪泉岳寺(明治26年). public domain

ある時、貧民への施しとして、「高輪泉岳寺で、一人につき玄米5合を付与する」という、おふれが出たことがありました。

貧民たちは、はるか遠くから泉岳寺を目指します。しかし、手渡されたのは引換券だけで玄米は翌日の受け渡しでした。

その話を聞いた岩五郎は、

ああ、何ぞ施主たる者の『貧民』を知らざるの甚だしきや

と嘆きます。

今日の食事にありつけるかどうか分からない切羽詰まった暮らしをしている貧民には、明日まで待つという余裕はありません。

それほどの苦しい生活をしている彼らにとって、引換券が腹の足しにならないのは明白であり、貧民の実情を知らぬものが慈善事業をしたところで、屁の突っ張りにもならないと岩五郎は憤ります。

そして、「貧民救助として与える物は、なるべくすぐに使える物でなければならず、衣類よりは食物、米よりは飯であり、施す者の手が施しを受ける者の手に触れるほどに、直接にしなければならない」と説きました。

さいごに

残飯屋」は、当時の貧民にとってなくてはならないものでした。

「残飯屋」の他にも『最暗黒の東京』には、ノミだらけの木賃宿や不衛生極まりない飯屋、よぼよぼの人力車夫の様子など、社会の底辺に生きる人々の実態が、詳細かつ生き生きと描かれています。

『最暗黒の東京』で提起された問題は現代に通じるものであり、本書は明治と現代がひと続きであることを、改めて気づかせてくれる一冊です。

参考文献
松原岩五郎『最暗黒の東京』.岩波書店
松原岩五郎 (乾坤一布衣) 著『最暗黒之東京』,民友社,明26.11. 国立国会図書館デジタルコレクション
深海豊二『無産階級の生活百態』.製英舎出版部,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

 

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