RAAの設立と目的
第二次世界大戦後の日本は、連合国軍の占領下に置かれました。
連合国の中でアメリカ軍は公娼制度を認めておらず、戦争中には多くの性加害問題が引き起こされています。
ヨーロッパの戦場では、フランスのノルマンディーに上陸したアメリカ軍やイギリス軍、カナダ軍の兵士たちが、味方であるはずのフランス女性を性的暴行する事件が多発。街中ではアメリカ兵が売春婦と行為をしている姿が至るところで目撃されたほどでした。
このような事例を受けて、連合国軍兵士による日本人の一般女性への性加害が懸念されました。
実際に沖縄戦では連合国軍が上陸した後、性的暴行事件が頻発し、連合国軍が日本に進駐した際には、最初の10日間だけで1336件(神奈川県下のみ)の事件が発生したそうです。
こうして日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲としての愛国心のある女性」を募集し、連合軍専用の慰安所を設立したのです。
それが「特殊慰安施設協会」、英語名「Recreation and Amusement Association(レクリエーション及び娯楽協会)」、通称「RAA」です。
RAAの設立目的は、占領軍兵士の欲求をこれらの施設で満たすことで、一般女性への被害を防ぐ「防波堤」となることでした。
RAAの運営と実態
RAAは、東京を中心に全国各地で運営されました。
慰安所の他にも、キャバレーやビアホールなども設置され、日本人女性と出会う機会を設けられていました。
RAAで働く慰安婦は戦争未亡人や生活困窮者など、やむを得ず従事した女性が多く、全国で5万3000人の女性が働いていたとされています。
当初は水商売に従事する女性を雇う予定でしたが、思うように集まらず、広告を通じて一般女性を募集しました。
しかし広告には仕事の詳細が記載されておらず、応募してきた女性の多くは水商売などの経験はありませんでした。
慰安婦は、一日あたり30人から50人の客を取ることもあり、当時の金額で月収が5万円に達する売春婦もいました。
当時の銀行員の初任給が80円であったことを考えると破格の金額ですが、戦後の混乱した時期で物価変動が激しかった状況を考慮すべきでしょう。
RAA設置後の状況と深刻な影響
RAAが設置された後も、進駐軍による性犯罪は深刻な問題でした。
1945年9月、横浜の慰安所では開業前日に武装したアメリカ兵が押し入る事件が発生しました。この事件は、慰安所が正式に開業する前日に起こったものであり、その後も慰安所内では、兵士たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が常に聞こえていたといいます。
進駐軍による性犯罪は慰安所にとどまらず、一般市民をも巻き込むものでした。
武蔵野市では小学生が集団で襲われ、大森では病院に200~300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦が性的暴行される事件も起こりました。
さらにRAAの設置は性病の蔓延も引き起こしています。慰安婦たちは、衛生状態が芳しくない兵士を相手にするため、常に感染リスクに晒されていました。そのため慰安婦の6割が、梅毒や淋病などに罹患していたと報告されています。
当時の性病対策は十分ではなく、検査や治療も不十分だったと考えられます。また慰安婦の中には感染によって精神を病み、自ら命を断った人もいたそうです。
RAAの設置は占領軍兵士の性的な欲求を解消し、一般女性の被害を防ぐことを目的としていました。
しかし実際には一般市民にも影響を及ぼし、病気の蔓延など新たな問題が生まれたのです。
RAAの廃止とその後
その後、RAAはGHQによって廃止されました。
1946年にポツダム命令による公娼制度廃止の方針や、元アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延などがあったためです。
しかしRAAの廃止後も在日米軍による問題行為は続き、1954年2月には宇治市で女子児童が残忍な手口で襲われる事件も発生しました。
さらに朝鮮戦争では日本人慰安婦が朝鮮半島へ連れて行かれるなど、RAAの廃止後も問題は引き続き残っていくことになります。
最後に
特殊慰安施設協会(RAA)は、占領軍兵士の欲求を解消するどころか、実際には状況を悪化させたとも言えるでしょう。
一筋縄では行かない性犯罪ですが、これらの歴史から学び、性加害のない社会の実現に向けて取り組んでいくことが重要ではないでしょうか。
参考文献:村上勝彦(2022)『進駐軍向け特殊慰安所RAA』筑摩書房
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