社会的性別の多様化に伴い、近年たびたび話題となっている「ジェンダーレストイレ」について、皆さんはどのような意見を持っているだろうか。
大型ショッピングセンターなどでは性別や身体機能を問わずに使用できる「みんなのトイレ」や「だれでもトイレ」なども整備されているが、そもそも日本の公衆トイレは昭和29年頃まで、男女別になっている方が珍しかったのだ。
公衆トイレにおける安全性が見直されるようになったのは、今から70年前の昭和29年に起きた『文京区小2女児殺害事件』の影響が大きかったと言われている。
全国の学校や公衆トイレの安全対策の見直しや、覚せい剤取締法の厳罰化の契機となったこの事件は、被害者の名前に由来して「鏡子ちゃん殺害事件」とも呼ばれた。
今回は日本全国に多大なる衝撃を与え、人々の安全意識や薬物中毒者の扱いにも大きな影響を与えた、文京区小2女児殺害事件について解説していこう。
事件の経緯
文京区小2女児殺害事件が起きたのは、昭和29年4月19日の午前中だった。当時7歳だった鏡子ちゃんは、東京都文京区本郷にあった元町小学校に通う2年生になったばかりの児童だった。
その日の2時間目は国語の授業が行われており、課題の絵日記を早々に仕上げた鏡子ちゃんは、他の児童よりも一足早く校庭に出て行った。
まもなく自由時間となり、鏡子ちゃんは友人にトイレに行く旨を伝え、1人で小学校の正面玄関右側にあるトイレに向かった。
3時間目の理科の授業が始まったが、校内のトイレに行ったはずの鏡子ちゃんは一向に戻ってこなかった。当時の担任だった女性教師は「忘れ物を取りに帰宅したのだろう」と考え、深く気にすることはなかった。
しかし鏡子ちゃんは、それから2時間が過ぎても教室に戻ってこない。さすがにおかしいと思い始めた担任教師とクラスメイトたちは、手分けして校内を捜索し始めた。その時たまたま学校の前を通りかかった鏡子ちゃんの母親も、騒動を知って鏡子ちゃん捜索に加わった。
捜索開始から間もなく、鏡子ちゃんが用を足しに行ったトイレの中で、1つだけ開かなくなっている個室が発見される。その個室はすりガラスの窓越しに内部を確認できるようになっていて、覗き込んでみると鏡子ちゃんが着ていたカーディガンの色が確認できた。
外から呼びかけてみても鏡子ちゃんが返事をすることはなく、扉を開けるとそこには変り果てた鏡子ちゃんの姿があった。
10日後に犯人が逮捕される
小学校のトイレで発見された鏡子ちゃんは、無残にも暴行された上で首を絞められて殺されていた。さらにその口には、鏡子ちゃんが着用していた下着が詰め込まれていた。
事件発覚後に警察が捜査を開始したところ、元町小学校の近所に住んでいる男性から容疑者に関する有力な情報が寄せられた。
その情報提供者いわく、彼の友人である坂巻脩吉という男が事件のあった日に彼の家を訪ねてきたようだが、その日はたまたま留守にしており、その後坂巻は別の友人の家を訪れ、手洗いでしきりに手を洗っていたという。
それから警察の捜査によって、トイレの配管から容疑者の持ち物と考えられるイニシャル入りのハンカチが発見される。
その物証が決定打となり、事件発覚から10日後の4月29日に坂巻は逮捕された。
犯人・坂巻脩吉の生い立ち
鏡子ちゃん殺害の容疑で逮捕された坂巻脩吉は、青果問屋を営む比較的裕福な家の息子だった。外から見れば経済的に恵まれた幸福そうな家庭だったが、坂巻の両親の仲は悪く、常に夫婦げんかが絶えなかったという。
成長した坂巻は、やがて母親に激しい憎悪を抱くようになる。
中学生になると、坂巻は学童疎開で親元を一時的に離れ、終戦後東京に帰ってきた頃にはすっかり勉強に対する意欲を失くしていた。
素行が悪くなって不良たちの集まりに顔を出すようになり、母親との関係も悪化してさらに人格が荒んでいった坂巻は、傷害や暴行事件を起こして捕まり保護観察処分を受ける。
その後、坂巻の両親は離婚して親権者となった父親は再婚したが、坂巻が継母になじむことはなかった。
やがて坂巻は当時流行していたヒロポンに手を出し、ヒロポン中毒となっていったのだ。
ヒロポンとは
ヒロポンとは、メタンフェタミンという強い中枢興奮作用を持つ物質を薬剤化したものの商品名だ。メタンフェタミンは覚せい剤取締法におけるフェニルメチルアミノプロパンであり、つまりヒロポンは「覚せい剤」の一種である。
現在では所持しているだけでも厳しい処罰を受ける覚せい剤だが、かつては世界各国で市販されていた。
帝国時代の日本においても兵士の士気向上や暗視能力の向上のために使われ、一般人の間でも戦時の勤労や工場の能率向上のために強壮剤感覚で常用されており、戦後には日本軍が保有していた大量のヒロポン注射剤が市場に出回るようになった。
タバコや酒などの嗜好品と同等に扱われ、酒よりも安く気軽に入手できたヒロポンは芸能界を始め、娼婦や戦争孤児の非行少年の間でも流行した。
中毒となった者は「ポン中(ヒロポン中毒者の略)」と呼ばれて蔑まれたが、現在のように犯罪者としては扱われていなかった。
時が経つにつれて、ヒロポン欲しさに犯罪に手を染める青少年が増えていった。
昭和25年に警察に補導された青少年のうちの約半数がヒロポン中毒者であり、補導されていない青少年を含めれば東京都内だけでも1万5千人以上、翌年にはその倍の3万人以上の青少年が中毒になっていると推定された。
昭和25年から26年にかけては、埼玉県でメタンフェタミン中毒(ヒロポンではないメタンフェタミン製剤)の少年ら百数十名による集団暴行事件が発生し、以前から医療者や専門家の間で取り沙汰されていた危険性がさらに問題視されるようになっていく。
昭和27年5月18日には「覚せい剤取締法案」が国会に提出されて7月30日に施行されたが、それでも中毒者による犯罪は後を絶たなかった。
坂巻が起こした鏡子ちゃん殺害事件もまた、覚せい剤に対する取り締まりが強化される要因となった事件の1つであった。
事件当日の坂巻の行動と、下された判決
昭和29年、坂巻は静岡県のサナトリウムで結核の治療を受けていたが、ヒロポン中毒と素行の悪さにより問題ばかり起こしていた。
事件当日の4月19日は、サナトリウムを無断で抜け出して東京に戻り、後に情報提供者となった友人宅に金を借りに行こうとしていた。
しかし友人が留守にしていたため、友人宅の周辺をぶらついているうちに尿意を催し、ちょうど近くにあった元町小学校に入ってトイレを借りた。
当時の公立小学校のトイレは「男女共同かつ、地域の公衆トイレ」としての役割も担っており、学校関係者以外も自由に立ち入ることができた。
小学校のトイレで用を済ませた坂巻は、たまたま他の個室で扉を少し開けたまま用を足していた鏡子ちゃんを見つけた。その姿を見て良からぬ感情を抱いた坂巻は鏡子ちゃんに近付き、泣き出した鏡子ちゃんの口をふさいで、暴行した後に首を絞めて殺害したのだ。
翌年の昭和30年4月15日、坂巻に東京地裁で死刑判決が下され、さらに翌年の昭和31年10月25日には最高裁で上告棄却、昭和32年6月22日に宮城刑務所にて坂巻の死刑が執行された。
死刑時の坂巻の年齢は22歳であった。
事件が社会に与えた影響
文京区小2女児殺害事件は、覚せい剤取締法の厳罰化の要因となっただけではなく、教育現場にも大きな影響を与えた。
事件が発生した日の翌月の5月には、東京都教育庁は都内の小中学校宛に6項目の「新管理方針」を示した。
その6項目とは以下の通りだ。
・学校長は男女のトイレを別にせよ
・トイレの個室は必ず戸を閉めるように学童に注意せよ
・来賓と学童のトイレを別にせよ
・授業のない教職員は小使とともに校内を巡視せよ
・外来者の出入りには、必ず教職員、小使が見られる通路を通るようにせよ
・学校の垣根や柵を厳重にし、無闇に外来者が出入りできないようにせよ
東京都内に通達された上記の指針はそのまま全国に広がり、現在ではほぼすべての公立小中学校のトイレが男女別に分けられるようになった。
小学生時代に、「なぜ職員室近くにある先生や来客用のトイレを子供が使ってはいけないのか?」「なぜ校長先生は授業中も学校中を歩いて見回っているのか?」疑問を抱いたことがある人もいるだろう。
それは子供たちの安全を守るためだったのだ。
理想的な公衆トイレの在り方とは
かつては男女共用というよりは「男性用のトイレを女性が使ってもよい」という感覚で設置されていた公衆トイレだったが、女性の社会進出が進むにつれて、公園や公共施設などにも男女別のトイレが徐々に設置されるようになっていった。
近年では犯罪抑止のためにも「不特定多数の人間が使うトイレは、男女を区別する」という考え方が一般的になり、それに伴う法律や条例も整えられてきた。
「ジェンダーレストイレ」や「誰でもトイレ」については、正しい使い方をする人しかいなければ、すべての人が安心して使える理想的な公衆トイレとなるだろう。
しかし公共の施設、特に人間が最も無防備な状態になるトイレという場所においては、悲しいことに常に犯罪の可能性を考えなければならない。
実際に公共のトイレでは成人女性を狙った盗撮や盗聴、覗き見に留まらず、幼い子供が被害に遭う凶悪犯罪が文京区の事件以降もたびたび起きている。
立場の弱い人々を、犯罪の脅威からどう守っていくべきなのか。公衆トイレにまつわる問題は、日本人の人権に対する意識を浮き彫りにする1つのテーマと言えるだろう。
参考文献 :
加賀乙彦(著)『死刑囚の記録』
大塚公子(著)『死刑囚の最後の瞬間』
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