貂蝉とは
貂蝉(ちょうせん)は、中国古代の四大美人(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)の一人として広く知られている。
コーエーのゲーム「三國無双シリーズ」でも初期から登場しており、馴染みのある方も多いだろう。
しかし、彼女は小説『三国志演義』に登場する架空の人物であり、実在性については極めて疑わしい。
本記事では、貂蝉の実在性について、歴史的な背景や文献を基に考察する。
貂蝉の登場
貂蝉は、14世紀に羅貫中によって書かれた小説『三国志演義』に初めて登場した。
彼女は『三国志演義』の中では、後漢末期の混乱期において、董卓と呂布の関係を悪化させるための策略「美人連環の計」の中心人物として描かれている。
美人連環の計は、後漢末期の政治家である司徒・王允が考案した策略である。
王允は、董卓の暴政に心を痛め、その専横を打破するために絶世の美女である貂蝉を利用した。この計略は暴政を極める董卓と、その義理の息子である呂布を仲違いさせることを目的としていた。
あくまで小説上での策略ではあるが、「美人連環の計」について簡単に解説しよう
美人連環の計
美人の計
王允はまず「美人の計」を実行した。
これは美人を用いて敵を油断させる策で、現代でいうところのハニートラップである。
王允は呂布を自宅に招き、彼を称賛しながら酒を勧めた。そして酔いが回った頃に養女の貂蝉を呼び、呂布に彼女を紹介した。
貂蝉の美しさに呂布はすっかり魅了され、王允は「この娘を将軍のお側に差し上げたい」と申し出た。
呂布は大いに喜び、王允に感謝の意を示した。
離間の計
次に王允は「離間の計」を実行した。
これは二者の仲を引き裂いて仲違いさせる策である。
呂布と貂蝉の婚約を取り付けた後、王允は董卓を招待し、同じように貂蝉を紹介した。
すると董卓もまた貂蝉に魅了され、彼女を自分の側に置くことを望んだ。
董卓が貂蝉を得たことを知った呂布は激怒した。
そこで王允は「董卓は貂蝉を呂布に譲るつもりだ」と説明し、一時的に呂布を納得させた。しかし、董卓は貂蝉を手放すつもりはなく、呂布はますます焦燥感を募らせた。
貂蝉の役割
貂蝉はその後、董卓と呂布の間で巧みに立ち回り、両者の関係をさらに悪化させた。
彼女は董卓の寝所で悲しげな表情を見せることで呂布の同情を引き、密かに呂布と会うことで彼の嫉妬心を煽った。これを知った董卓は激怒したが、貂蝉は董卓に対しても忠誠を誓うふりをし続けた。
こうして貂蝉の策略により、董卓と呂布の関係は次第に悪化していったのだ。
董卓の最期
そして、ついに決行の日が訪れた。
王允は呂布に対して「董卓が貂蝉を奪った!」と嘆き、董卓を討つ決意を固めさせた。
そして董卓をうまく長安におびき出し、呂布と兵たちと共に一気に董卓を取り囲み、ついに討ち取ったのである。
董卓は54歳でその生涯を終えた。
このように『三国志演義』では、貂蝉は王允の養女として登場し、その美貌と智謀で両者を見事に離間させている。
こうした複数の計(美人の計、離間の計)をつなぎ合わせて大きな効果を生むことを「連環の計」という。
「連環の計」は、赤壁の戦いで劉備軍の軍師・龐統が、曹操軍の船を鎖で繋げた計というイメージが強いが、本来は複数の計をつなぎ合わせるということを意味する。
ここでは美人の貂蝉が中心人物だったことから「美人連環の計」としている。
史実の中の貂蝉
しかし正史である陳寿の『三国志』や、裴松之の『三国志注』には、貂蝉に関する記述は一切見られない。
このことから、貂蝉は実在しなかった可能性が高いとされる。
また、先述した「美人連環の計」も史実としての証拠は存在しない。
王允は実在の人物であり、董卓の暗殺に関与したことは確かだが、その手段として貂蝉を用いたという話は、小説の創作である可能性が高いのだ。
貂蝉のモデル
とはいえ、貂蝉のモデルとなった人物が存在する可能性はある。
中国の歴史や文学には時代を問わず、「美人」や「女性」にまつわる話は多い。
例えば、秦の始皇帝の母・趙姫や、漢の劉邦の正妻・呂后など、実在の女性をモデルにした物語が多いのである。
実際に陳寿の『正史 呂布伝』にも「呂布は、董卓の侍女と密通していた」という記述があり、争いの原因となりそうな女性が存在しているのだ。
貂蝉も、この侍女を基に創作されたキャラクターなのかもしれない。
最後に
貂蝉の存在は、歴史と文学の交差点に位置する興味深いテーマである。
中国の歴史は、文学作品を通じて伝えられることが多く、その中で多くの創作や誇張が行われてきた。
『三国志演義』も、その一例であり、史実を基にしながらも、多くのフィクションが織り交ぜられている。
貂蝉の物語は、歴史の謎とロマンを感じさせるものであり、今後も多くの人々の興味を引き続けるだろう。
参考 : 『三国志演義』『正史三国志』
この記事へのコメントはありません。