奈良時代

天武天皇の皇統が絶えた「光仁天皇呪詛事件」 ~庶民に落とされた皇后と皇太子

画像 : 天智天皇(中大兄皇子) public domain

天智天皇と天武天皇

大化の改新を主導した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇(てんじてんのう)は、飛鳥時代中期において権勢を振るった。

即位後、弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)を※皇太弟に任命し、次期皇位継承者とした。(※皇位継承者ではなかったと否定する説も有り)

しかし、即位から数年後に病気がちになった天智天皇は、自分の子である大友皇子(おおとものおうじ)に皇位を継承したいと考えるようになる。

この変化を察した大海人皇子は、皇太弟の地位を辞退し、出家したうえで飛鳥から吉野へ隠居した。
皇位継承者の立場でいると大友皇子への皇位継承の邪魔になるため、天智天皇に命を狙われる可能性があったからだ。

その後、天智天皇が崩御すると、大友皇子が弘文天皇(こうぶんてんのう)として即位する。しかし、即位した弘文天皇にとって、大海人皇子の存在は常に自らの立場を脅かす危険因子であった。

672年、これを排除するため、弘文天皇は挙兵し、両者の間で皇位継承を巡る争い、壬申の乱(じんしんのらん)が勃発する。しかし、大海人皇子が勝利を収め、弘文天皇は自害に追い込まれた。

画像:天武天皇 public domain

勝利した大海人皇子は天武天皇(てんむてんのう)として即位し、これにより天智天皇の皇統は皇族の主流から外され、天武天皇の皇統が続くこととなる。

飛鳥時代後期から奈良時代にかけては、天武天皇が皇位継承者として定めた草壁皇子(くさかべのおうじ)の血統を中心に、天武天皇の皇統が維持されてきた。その過程では、天皇の母や姉が女性天皇として中継ぎを果たす時期もあった。

しかし、その天武天皇の皇統も、奈良時代末期には終焉を迎えるのである。

本稿では、天武天皇の皇統が途絶える契機となった「光仁天皇呪詛事件」について、詳しく掘り下げていきたい。

天智天皇の血統「光仁天皇」が誕生した経緯

画像:聖武天皇 public domain

第45代 聖武天皇(しょうむてんのう)は、二人の皇子を若くして失い、男系の後継者が不在となった。

749年、仏教に深く傾倒していた聖武天皇は、娘である阿倍内親王(あべないしんのう)に譲位し、彼女は第46代 孝謙天皇(こうけんてんのう)として即位した。

しかし、この時点で天武天皇の皇太子であった草壁皇子の男系血統は途絶えており、新たな後継者問題が発生することとなったのだ。

天武天皇の皇統を途絶えさせないため、孝謙天皇の後継者は、草壁皇子の兄弟皇子の子孫から見つける必要があった。

そこで、聖武天皇は崩御する前に、新井田部親王(にいたべしんのう)の子である、道祖王(ふなどおう)を皇太子に指名するよう遺言を残した。
この遺言に基づき、道祖王は立太子されたが、素行の悪さからわずか1年で廃太子されてしまう。

これを受け、舎人親王(とねりしんのう)の子である大炊王(おおいおう)が立太子され、758年、孝謙天皇からの譲位を受けて第47代 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が誕生した。

しかし淳仁天皇は、同じ天武天皇の子孫とはいえ、孝謙上皇とは遠い親戚のような関係であった。

画像 : 天皇系図 38~50代 public domain

淳仁天皇は、即位当初は孝謙上皇との関係は良好であった。

しかし、太政官の首班であった藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)との関わりから、次第に関係が悪化し、最終的には淳仁天皇は廃位され、親王の地位に降格された上、淡路島に流されることとなった。
後に廃帝(淳仁天皇)は逃亡を図ったが捕えられ、その翌日、病気により崩御している。
実際には暗殺されたとみられている。

廃帝は葬儀なども行われず、長く歴代天皇として認められなかった。「淳仁天皇」として諡号を賜られたのは1870年(明治3年)になってからである。

こうして草壁皇子の血統以外の皇子が即位したものの、結果的にはうまくいかず、764年、孝謙天皇が再び皇位に就き、第48代 称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位した。

画像 : 孝謙天皇(こうけんてんのう)後に重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう)public domain

称徳天皇は、寵愛していた道鏡(どうきょう)を太政大臣や法王に任命した。

しかし769年、道鏡は天皇の座を狙って「※宇佐八幡宮神託事件」を引き起こした。(※道鏡勢力が「道鏡を皇位に就かせれば国は安泰である」という神託が宇佐八幡宮からあったと、称徳天皇に奏上した事件)

和気清麻呂の働きにより道鏡の野望は阻止できたが、この事件後も皇太子は決定されることなく、事件の翌年、称徳天皇は崩御した。

後継者を決めるにあたり、右大臣の吉備真備(きびのまきび)は、天武天皇の皇子の一人である長親王(ながしんのう)の子・文室智努(ふんやのちぬ)や、文室大市(ふんやのおおち)を推したが、最終的に藤原氏が推挙した白壁王(しらかべおう)が選ばれた。

白壁王は天智天皇の孫であったが、后は聖武天皇の娘である井上内親王であった。

白壁王と井上内親王との間には皇子が生まれていた。この皇子は、女系ではあるものの天武天皇の血統を引いているため、天武天皇の血筋を受け継ぐ男性皇族として位置づけられた。

つまり、将来的にこの皇子が皇位を継ぐ可能性を見越して、天智系の白壁王が皇位継承者として選ばれ、光仁天皇(こうにんてんのう)となったのである。

ちなみにこの時点での白壁王は62歳で、実在が確認されている第26代継体天皇以降では、即位最高齢記録である。
白壁王は度重なる政変、粛清の中で、酒を飲んで凡庸・暗愚を装って日々を過ごす事により、難を逃れてきたとされている。

光仁天皇呪詛事件

画像 : 光仁天皇 public domain

770年、白壁王は光仁天皇として即位した。

即位に際し、后である井上内親王を皇后に立て、彼女との間に生まれた第四皇子である他戸親王(おさべしんのう)を皇太子に任じた。

しかし2年後の772年3月、「皇后が呪詛により光仁天皇を暗殺しようと企てた」との密告があり、井上内親王は皇后を廃されることになる。

同年5月には、皇太子であった他戸親王も廃され、代わって光仁天皇の第一皇子である山部親王(やまべしんのう)が、新たに皇太子として立てられた。

この背景には、光仁天皇の即位に尽力したとされる右大臣・藤原永手(ふじわらのながて : 藤原北家)が他界したことで、権力の中心が藤原北家から藤原式家へと移り始めたことが影響していると考えられる。

北家の永手に代わって実権を握った式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、北家が擁立した他戸親王が即位することを嫌ったのだ。

式家の藤原良継や、藤原百川(ふじわらのももかわ)らが暗躍し、才能があるものの母親の身分が低かった山部親王(後の桓武天皇)を後継者にしようとしたのである。

天武天皇の皇統から、天智天皇の皇統への回帰

画像 : 桓武天皇(山部親王) public domain

井上内親王、他戸親王は、皇后や皇太子といった地位を剥奪されただけで終わらなかった。

光仁天皇呪詛事件の翌年、773年10月、光仁天皇の同母姉である難波内親王が薨去した。
すると、この薨去に対しても「井上内親王が呪詛し、殺害した」という疑惑がかけられたのだ。

そして井上内親王と他戸親王は、ついには皇族の立場まで剥奪され、庶民の身分に落とされ、空き家になっていた官僚の邸宅に幽閉されてしまったのである。

当時の朝廷内には、追放された他戸親王の復位を求める声がまだ少なからずあった。しかし、その可能性も完全に絶たれてしまったのである。

2年後の775年4月27日、井上内親王と他戸親王は薨去する。
同日に亡くなった不自然さから、自殺、もしくは暗殺されたのではないかとされている。

こうして、聖武天皇からの女系を通じてわずかに残っていた、天武天皇の皇統は途絶えた。

これにより、光仁天皇の即位以降、皇統は天武天皇の血筋に戻ることなく、完全に天智天皇の血統へと回帰したのである。

参考:
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部

 

 

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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