幕末明治

「新5千円札の顔」津田梅子 ~日本の女子高等教育に人生を捧げた津田塾創設者

津田梅子(つだ うめこ)は、「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を理念とした女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立した女性です。

二度にわたるアメリカへの留学後、華族女学校の教師として復職、辞職を経たのちに女子英学塾を開校しました。

こうした日本の女子高等教育に尽力した津田梅子ですが、2024年7月3日から新しい5,000円札の顔として登場しています。

男女同等の高等教育は、アメリカでは1870年から1880年代になってからです。ちょうどその時期に梅子は渡米しており、その中で教育者としての道を志し、教員養成課程を学んでいきました。

今回は、津田梅子の女子高等教育の先駆者としての生涯を追ってみました。

7歳で、アメリカ留学

画像 : 7歳の頃の梅子。ワシントンD.C.で撮影。梅子の服装は、シカゴ滞在中に撮った5人での記念写真での服装と同じである public domain

梅子は、1864年(元治元年)12月に千葉県佐倉藩出身の父・津田仙、母・初子の次女として生まれました。生誕地は江戸牛込南町で、現在の新宿区にあたります。

1871年(明治4年)11月に、梅子は岩倉使節団の一員としてアメリカへと向かい、日本初の女子留学生の一人として女子教育を学ぶ機会を得ました。このとき梅子はわずか6歳でしたが、船で渡航中に7歳の誕生日を迎えました。

その後、ワシントン近郊のジョージタウンのランマン夫妻のもと、少女時代を過ごします。
この時期、南北戦争後のアメリカは奴隷制度が廃止され、産業革命の急成長により工業化が進んでいました。

そうした背景の中で、梅子は女子留学生として初等・中等教育を受けています。

10年間の留学を経て日本に帰国、華族女学校での教育活動

画像 : 華族女学校 public domain

1871年(明治4年)にアメリカ留学へ向かった梅子は、1882年(明治15年)に日本初の公式な女子留学生として17歳で帰国します。

10年間のアメリカ留学生活を終え、3年後の1885年(明治18年)には華族女学校教師補として働き、翌年1886年(明治19年)には同校の教授になっています。

梅子は、日本初の女子留学生として貴重な経験を積んでいましたが、その一方で大きな課題にも直面していました。

それは、英語環境で少女期を過ごしたことにより、帰国後に日本語がうまく話せなくなっていたことでした。

後に梅子は日本語に慣れていきますが、コミュニケーションにおいて課題があったと言われています。

華族女学校を休職して、24歳で2度目のアメリカ留学

画像 : ブリンマー大学在学時(1890年)public domain

梅子は1889年(明治22年)に華族女学校を休職し、2度目のアメリカ留学としてペンシルベニア州フィラデルフィアのブリンマー大学で学びました。

1885年創立のブリンマー大学は、女性に高度な教育を提供する女子大学であり、梅子はそこで2年半にわたって生物学を専攻しました。

この期間中、トーマス・ハント・モーガン教授と共にカエルの卵の発生に関する研究を行い、その成果は1894年に論文として発表されています。

1892年(明治25年)に留学を終えて帰国した梅子は、再び華族女学校へ復職し、さらに女子高等師範学校でも教鞭を執るようになりました。

こうして、日本の女子高等教育の発展に尽力したのです。

津田塾大学の前身である「女子英学塾」を開校

画像 : 女子英學塾(現津田塾大學)創校時津田梅子肖像(1900年頃)public domain

梅子は、1900年(明治33年)に35歳で華族女学校を辞し、同年に当時の麹町区一番町に女子英学塾(津田塾大学の前身)を開校しました。

開校時の塾生は10名で、女性の自立と高等教育の機会提供を目指し、学んだ知識を社会に還元する方針を掲げました。

梅子が留学したブリンマー大学の二代目学長であったM. ケアリ・トーマスは、男女平等の高等教育を提供することを目指していました。その理念は、現在の津田塾大学の理念でもある「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」と共通する部分があります。

梅子はアメリカでの留学生活を通して、こうした教育方針の影響を受け、女子英学塾の教育理念に反映させたと考えられます。

梅子を支えてきた人たち

画像 : 新政府の滞米留学女学生: 左から、永井繁子 (10歳)、上田悌子 (16)、吉益亮子 (16)、津田梅子 (9)、山川捨松 (12) public domain

日本の女子高等教育機関を共に目指した親友として、大山捨松(おおやま すてまつ)と、瓜生繁子(うりゅう しげこ)がいます。

彼女たちは、梅子が初めて海外留学をした際の五人の女子留学生の仲間でもあり、それぞれが留学先のヴァッサー大学を卒業しました。

大山捨松は、女子英学塾の同窓会長を務めたほか、経済的に苦しい時期の女子英学塾を支援するため、母校ヴァッサー大学の卒業生から寄付を募るなど、梅子を支えました。

瓜生繁子は、現在の東京芸術大学音楽学部の教授として西洋音楽の教育に尽力し、その後1902年(明治35年)に退職。女子英学塾の活動にも積極的に関わり、梅子の教育理念を支援しました。

また、アリス・ベーコンというアメリカ人女性も、梅子の支援に尽力しました。

アリスは、梅子たちが初めて留学した際、大山捨松のホストシスターとして交流が始まりました。女子英学塾の創立後には再来日して華族女学校で教師を務め、日本における女子教育の推進に協力しました。

アリスはフィラデルフィアで「フィラデルフィア委員会」の設立に関与し、この委員会は、慈善家メアリ・モリス夫人らによって設立され、女子英学塾への支援活動を行いました。

「フィラデルフィア委員会」には、梅子がブリンマー大学で出会ったアナ・ハーツホンも参加していました。

また、1923年(大正12年)の関東大震災で津田塾大学の校舎が全焼した際、アリスやメアリ・モリス夫人、梅子の妹・安孫子余奈子らがフィラデルフィアで募金活動を行い、その募金で1931年に津田塾大学本館のハーツホンホールが建設されました。

千駄ヶ谷キャンパスには「アリス・メイベル・ベーコン記念館」という名前の建物も建てられています。

津田梅子の死とその後

画像 : 明治38年(1905年)、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業式にて撮影。後列の左から2人目が津田梅子、左から3人目がアナ・ハーツホン、左から4人目が河井道 public domain

梅子は1917年(大正4年)53歳の時に発病し、その2年後に女子英学塾から退いています。

そして、1929年(昭和4年)8月16日、64歳で亡くなりました。

梅子は生涯独身を通し、日本の女子高等教育の発展に貢献した人生を送りました。

創立者である津田梅子を記念するため「女子英学塾」から「津田英学塾」へ。そして「津田英学塾」から「津田塾専門学校」へと名称が変更されましたが、1948年(昭和23年)には現在の名称でもある「津田塾大学」として設立されています。

梅子が掲げた「女性が力を発揮できる社会の構築」という理念は、今日の津田塾大学の教育精神として受け継がれ、様々な分野で卒業生たちがその精神を体現し続けています。

参考:『明治150年 津田梅子・佐藤志津に学ぶ〜国際社会へ向かう女性たち〜』他
文 / 草の実堂編集部

 

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