北朝鮮と聞くと、多くの人がまず独裁国家や粛清というイメージを思い浮かべるのではないだろうか。
現在では金正恩(キム・ジョンウン)がその象徴として語られることが多いが、北朝鮮の歴代国家主席たちはいずれも大規模な粛清を行ってきた歴史がある。
その始まりとも言えるのが、北朝鮮の建国の父とされる金日成(キム・イルソン)である。
彼は何度も粛清を繰り返し、独裁体制を築き上げたが、一体なぜそのような行動に至ったのだろうか。
本稿では、金日成の生い立ちや背景に迫り、その人物像を紐解いていく。
共産主義思想に染まる中学時代
金日成(本名:金成柱)は、1912年に平壌で生まれた。
幼少期を満州と平壌で過ごし、中学時代には再び満州での生活を送ることとなる。この時期、金日成が共産主義に興味を持つきっかけとなったのは、通学先の中学校で教鞭を取っていた中国人教師、尚鉞(しょうえつ)の存在であった。
尚鉞は共産主義思想の持ち主であり、授業ではレーニンの「帝国主義論」を教材として使用していた。こうした教育に触れた金日成は強い感銘を受け、中学校の図書館で「朝鮮共産党宣言」に出会ったことで、さらにその思想に傾倒していく。
17歳になると、金日成は朝鮮人吉林青年会を結成し、メンバーと共に独立戦争をオマージュした遊撃戦ごっこや、メンバーを整列させ共産主義について説いていたという。
その後、同会を母体として朝鮮共産主義青年同盟を再創設し、当時の朝鮮に根付いていた民族主義思想を批判する演目を通じて、自らが掲げるマルクス・レーニン主義の浸透を図った。
しかし、当時の朝鮮社会では共産主義活動は非合法であり、その主張や行動には大きな危険が伴った。
そのため、金日成は当局に逮捕され19歳まで牢獄で過ごすこととなり、中退を余儀なくされる。
戦火に飛び込んだ20代
金日成は釈放後、1932年に南満州で「遊撃隊」を創設し、同年、中国共産党磐石県委員会が設立した朝鮮人を主体とする「パルチザン」に参加した。
この組織は、大日本帝国が満州を統治した際に抗日運動を武力化したものであり、金日成はその第六部隊に配属された。ここで彼は戦火の中に身を投じ、次第にその名が知られるようになる。
様々な戦闘を経て、金日成はゲリラ戦での実績を積み重ね、1936年には「金日成部隊」を結成するまでに頭角を現した。
こうして彼はパルチザン内での地位を確立して影響力を広げ、この活動は日本が敗戦する1945年まで続いた。
ここで分かるように、この時期の金日成は主に戦闘に専念しており、政治的な活動や政策形成には深く関与していなかった。
金日成の性格が垣間見える抗日パルチザン
パルチザンに入った金日成は多くの成功をおさめ、北朝鮮や日本を含む一部地域においても名を知られるようになった。
しかしこの時期から、彼の残酷な一面も垣間見えるようになる。
金日成が率いる「金日成部隊」は、戦力の補充や食糧の確保を目的に、中国や朝鮮の農村で徴収活動を行っていた。
この徴収の方法は極めて暴力的で、襲撃した村や町の住民から物資を強制的に取り立てた。
若者を連れ去り、兵士として訓練を強制する拉致行為も頻繁に行った。村民が要求に応じない場合には人質を取り、「耳や首をはねるぞ」と脅すことも辞さなかったという。
これらの行為は北朝鮮内部では英雄的な行動として宣伝される一方で、実際には現地住民に恐怖を与え、多くの非難を浴びる結果となった。
ただし、こうした手法は金日成自身が独自に考案したものではなく、パルチザン組織の一般的なやり方に影響されたものと考えられる。
金日成を支える者
第二次世界大戦後、日本の敗戦に伴い朝鮮半島は南北に分断された。
南半分はアメリカ軍による統治が行われ、北半分はソ連軍の管理下に置かれた。北朝鮮に戻った金日成は、国内での権力基盤を確立するため、政治的な活動を本格化させていく。
当時、ソ連は北朝鮮を自らの影響下にある社会主義国家へと変えることを目指し、金日成を重要な駒として支援した。
ソ連型社会主義体制の構築を進めたイグナチエフや、北朝鮮初代のソ連大使であったシチコフらがその後ろ盾となった。彼らの支援を受けた金日成は、ソ連軍や元パルチザン勢力の力を背景に、政治の表舞台に登場したのである。
1946年、金日成は「北朝鮮臨時人民委員」に就任した。
この委員会は、北朝鮮における正式な行政機関であり、後に北朝鮮国家の基盤となる組織である。また、ソ連の支援を受けた軍事組織は国内の反対勢力を抑え込み、朝鮮労働党を創設。金日成をその指導者に任命した。
こうして金日成は、政治と軍事の両面で権力を強化し、自らを中心とする支配体制を確立していった。
また、安全を確保するため保安隊を編成し、旧パルチザン戦士を周囲に配置した。
独裁国家の序章である。
朝鮮戦争と金日成
金日成が北朝鮮のトップとして権力を強化していた1950年、朝鮮戦争が勃発した。
この戦争はアメリカとソ連による代理戦争と見られがちだが、金日成自身も朝鮮半島再統一を目指す中で、積極的に関与していた。
南北に分断された朝鮮を一つに戻す方法として、金日成が選択したのは武力行使であった。
もちろん他の手段も模索された可能性はあるが、20代の頃からパルチザンとしてゲリラ戦を展開し、戦闘経験を重ねてきた金日成にとって、武力が最も迅速かつ効果的な解決策だと考えたのは不思議ではない。
さらに、この計画はソ連のスターリンに協議と承認を求め、彼の支援を得た上で実行に移された。
金日成は、南朝鮮(現在の大韓民国)を「アメリカ帝国主義の傀儡」と位置付け、これを「侵略者」と呼んで排除するべき対象と宣伝した。また、解放直後には軍事工場を設立し、人民軍や警備隊を強化して南朝鮮を上回る軍事力を整えた。
しかし、朝鮮戦争は当初の予想を大きく超えて泥沼化し、1953年に休戦協定が結ばれた後も、南北の分断は固定化されたままとなった。
この戦争の結果、冷戦構造の影響を受け、朝鮮半島は現在に至るまで統一を果たせない状況が続いている。
独裁政治を目指した排除
朝鮮戦争が勃発し、南朝鮮への攻撃を進める金日成に対して、北朝鮮国内では反対の声が多く上がった。
その代表的な意見は、「日本に対抗し共に独立を目指した仲間を、なぜ侵略者と呼ぶのか」という批判であった。
しかし、金日成にとってこの意見は理解しがたいものであった。彼にとって南朝鮮は既に異なる国家であり、北朝鮮主導で統一を進める上で障害となる存在と見なしていたからである。
金日成は、自身に向けられる批判を回避するため、「戦争の算段を誤ったのはパルチザン派幹部の責任だ」として彼らを非難。
支持基盤であったパルチザン派をも切り捨て、自己正当化を図った。
また、軍や政府内の規律の乱れを理由に、反対勢力を訓戒、除名、追放するなどの処分を進めた。
こうして反対派を次々と排除しながら、独裁的な支配体制を固めていったのである。
大粛清と独裁体制の確立
金日成による粛清は、権力掌握の過程で継続的かつ計画的に行われた。
1953年には、スパイ容疑を名目とした大規模な粛清が実施され、政府関係者12名が反逆罪などの罪に問われた。
この裁判では、具体的な証拠が乏しいまま、全員が罪を認めさせられ、10名が死刑、2名が10年以上の懲役刑を宣告された。また、全員の財産が没収されるなど、徹底した弾圧が行われた。
さらに1956年、延安派やソ連派が中心となった「8月宗派事件」では、金日成に反対する勢力が徹底的に排除された。
この事件では、金日成の個人崇拝を批判し、党内の民主化を求める声が上がったものの、これらの勢力は「反党宗派分子」として粛清された。延安派やソ連派の主要メンバーは解任や追放、あるいは亡命を余儀なくされ、以降、金日成を中心とする満州派が権力をほぼ独占するようになった。
金日成の粛清は、反対派や異なる意見を持つ者にとどまらず、かつて彼を支えた同志や忠誠を誓った人物も対象となった。たとえ忠誠を誓っていても、政治的な障害とみなされると次々に排除されたのである。
こうした過程を経て、北朝鮮では金日成を中心とした独裁体制が確立された。その支配の基盤は、恐怖と粛清の繰り返しによって築かれたものである。
その影響は現在に至るまで続いており、北朝鮮という国家の特異性を形作る重要な要因となっている。
参考 :
『金日成』講談社学術文庫
『ドキュメント 金日成の真実』毎日新聞社
『北朝鮮五十年史「金日成王朝」の夢と現実』朝日新聞社
文 / 草の実堂編集部
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