興味深い三国志の珍説
三国志には正史の記述が曖昧だからこそ、それを補完すべく今日も様々な説が生まれている。
三国志にまつわる珍説も多数あり、妹の何皇后が美人だったから兄の何進も美形だったかも(?)という、何の根拠もない「何進イケメン説」のような笑い話から、異民族の多い土地の生まれだから呂布はモンゴル人だったかもしれない「呂布奉先モンゴル人説」のように、完全には否定出来ない興味深い説もある。
数ある三国志の珍説の中で特に興味深いものは、龐統が呉のスパイだったというものである。
劉備軍の軍師として、短い期間ながらも貢献した龐統が呉のスパイだったというのは俄には信じがたいが、龐統が「忠臣」として劉備に仕えていた証拠もない。
今回は正史の不可解な記述から「龐統呉のスパイ説」を検証する。
疑惑1…疑問しかない周瑜との関係
龐統は地元荊州にある郡の功曹として人事採用を担っていた。
龐統が劉備に仕えるまで荊州の支配者は何度も変わっており、龐統が本格的に正史に登場する直前まで、劉備と周瑜の間で荊州を巡る争いが繰り広げられていた。
龐統がどの勢力圏に属していたかは書かれていないが、周瑜が病死すると周瑜の棺を呉に送り届けており、それが龐統で初めて登場する場面になっている。
ここで気になるのは、龐統と周瑜の関係だ。
正史には龐統と周瑜の接点はない(知事と面識のない地方公務員は日本でも普通に存在する)が、呉の重臣だった周瑜と面識も何もない地方公務員が何故呉に棺を送り届けるのだろうか(周瑜の存在が大きかったとしても総出で送り届けるのは現実的ではない)という疑問が生じる。(家柄という意味で龐統は確かに立派であり、呉や荊州で有名人だったのも事実だが、周瑜との関係が一切書かれていないのは逆に「不自然」に感じる)
疑惑2…将来性のある呉に加わらなかった理由
周瑜の葬儀を経て龐統は呉の名士と友好関係を結ぶようになり、人脈を更に広げていた。
言い方は悪いが、龐統は周瑜の死を利用して呉との「コネ」を作った事になる。
また、龐統は呉でも有名な存在となっていたため、本人にその気があれば知名度と家柄、そして人脈を利用して呉で出世するチャンスは十分にあった。
荊州を巡る争いは最終的に劉備が勝ったため龐統は劉備に仕える事になるが、客観的に見ても当時まだ弱小勢力だった劉備よりも呉に仕える方が将来性があったように見える。
事実、劉備から龐統に与えられたのは耒陽県の県令という閑職であり、人事に関する権限を一任されていた前職の方がむしろ厚待遇だった。
龐統が余程の地元愛を持っていたか、呉から密命を受けて劉備陣営に潜り込んだ「スパイ」でもない限り、出世するチャンスを逃した事になる。(劉備より先に呉に売り込もうとしたが冴えない風貌を孫権に嫌われたという説もあるが、それは演義が提示した説に過ぎない)
そして、次の疑問は劉備に仕えた後の龐統と魯粛の行動である。
龐統は劉備の自身に対する扱いに不満を持って仕事をしなかったため、激怒した劉備から免職される。
前職よりも扱いが悪い事に抗議したい気持ちは分からない事はないが、龐統の行動は完全な「職務放棄」であり、現代人から見ても龐統のクビを切った劉備の方に正当性がある。
無職となった龐統だが、諸葛孔明と、何故か呉から手紙を送って来た魯粛の取り成しによって復職(結果的に軍師中郎将へと出世)する事になる。
孔明と龐統は、親類の結婚で縁戚関係となっていた事情もあるから孔明が取り成すのは分かるが、何故ここで他勢力の魯粛が出て来るのだろうか。
普通に考えたら呉でも名の知れた存在である龐統を誘って、孫権に厚遇するよう働き掛けた方が呉にとっても龐統にとってもメリットの大きな話である。
では、名も実績もある龐統を魯粛が自軍に引き入れなかったのは何故だろうか。
当時の中国の勢力図を見ると見ると、曹操の一強は変わらなかったが、魯粛は曹操を牽制するための第三勢力として劉備を必要としており、劉備には後々まで生き延びて貰う必要があった。(呉の協力がなければ劉備は生き残れなかったため、色々な意味で劉備を「生かしていた」魯粛には逆らえず、龐統を呼び戻さざるを得なかったという解釈になる)
それも計算した上で、魯粛が龐統をスパイとして劉備陣営に送り込んでいたと考えたらどうだろうか。
龐統が軍師として劉備の益州攻めに貢献すれば、劉備の独立による三国鼎立の実現(呉から見れば荊州返還の舞台が整う)は勿論、劉備軍の「情報」も得られるようになる。
龐統が呉のスパイである事を前提とした仮説だが、龐統が劉備の手助けをしつつ、本来の目的である劉備軍の内部情報を手に入れようと呉が考えていた可能性は低くない。
疑惑3…疑問の残る劉備との関係
最後に、劉備と龐統の関係を考察する。
就任早々クビになるなど、劉備と龐統の初期の関係は最悪だった。
魯粛と孔明の取り成しで結果的に出世出来たものの、劉備と龐統の関係が良好だったという記述はなく、劉璋を騙し討ちにして蜀を奪うよう進言した龐統の提案を却下するなど、劉備も龐統を軍師として積極的に使う気があったようにも見えない。
また、正史には次のようなエピソードがある。
戦に勝利して上機嫌の劉備は、龐統から「他者の城を奪ったのに喜ぶとは何事ですか」と咎められる。
蜀攻めを進言したのは他ならぬ龐統であり、怒った劉備は龐統を退出させる。
その後、自分が浮かれすぎていた事に気付いた劉備は龐統を呼び戻すが、気まずそうにしている劉備とは対照的に龐統は何事もなかったかのように振る舞っていた。
劉備が「君と私のどちらが間違っていたのだろうか」と龐統に聞くと、龐統は「どちらも間違っていました」と答えた。
自分にも非があった事を示して、主君である劉備を一方的に悪者にしないという意味で完璧な回答ではあるが、その一方で劉備を怒らせた事に対する龐統からの謝罪の言葉は見当たらない。(浮かれていた劉備を戒めるならもっといい言葉があったはずである)
この話は現代では笑い話として伝わっているが、正史の記述を見ると劉備と龐統は衝突している事の方が多いため、二人の関係が良好だったようには見えない。
勿論、文章が伝えないところでお互いに敬意を持って接していた可能性も十分あるが、劉備は龐統が呉のスパイである事を見抜いていたため積極的に使いたくなかったという説も興味深い。
龐統が戦死した時は(ドラマでは)大袈裟なまでに取り乱して悲しんだ劉備だが、やりたい放題大暴れしている劉備役の役者が楽しそうという感想しかない迷場面も、意外と心の中では「呉との関係をややこしくする邪魔物が消えた」と思っていたのかもしれない。
誰も「否定出来ない」珍説の面白さ
正史に於ける龐統の記述は疑問の残る部分が多々あり、それが今回考察した「龐統スパイ説」を生み出した背景となっている。
もっとも、龐統が呉のスパイだったという「証拠」がないため珍説の域は出ないが、正史の記述を見ても龐統が呉の人間と親しかった事に加え、劉備に忠誠心を持って仕えていたようにも見えないため、完全に否定する事も出来ない。
結局のところ読者は正史の曖昧な記述から自分なりに解釈するしかないのだが、これまで想像しなかった視点から三国志を見るのも面白い。
この先に伏兵がいると知りながら、自分が死ぬ事で劉備が蜀を攻める大義名分を与えたと解釈する作品もあるのだから、龐統が呉のスパイだったという設定の作品がそのうち登場するかもしれないので期待したい。
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