軍神「上杉謙信」の後継者と目されながらも、上杉景虎との家督争いを征することでようやく越後の大名となった上杉景勝。
その後は、若き家老「直江兼続」とともに上杉家を守ることになるのだが、徳川家康の時代となり最大の危機が訪れた。しかも、それは上杉が招いたようなものである。
では、なぜ景勝は家康に弓を引いたのか?
五大老
※上杉景勝
そもそも景勝は豊臣方の武将であった。
佐渡の金・銀山の運営を任されたり、小早川隆景が隠居したことで空席となった五大老の一人に任命されたりと、秀吉の信も厚い。
慶長3年(1598年)には、豊臣秀吉によって会津120万石に加増移封されただけでなく、佐渡や越後の一部までその領地として残された。この移封には、秀吉が制圧できていない東北の諸大名に睨みを利かせる意味もあったが、それだけ秀吉が景勝を重用したことの証だ。
しかし、会津に移って間もない慶長3年8月、秀吉が死去すると五大老の間に亀裂が入る。これが上杉家を危機へと進ませる兆候であった。
神指城
※神指城跡周辺
天下の覇権を狙う徳川家康に対し、景勝は対立する立場をとる。「直江兼続が石田三成と親しかったことから」という話もあるが、上杉家の家訓でもある「義」を考えれば、例えそのような縁がなくとも家康と対立する側に立つのは容易に推測できる。秀吉には大きな恩義があるが、家康に従うような理由はない。
秀吉の葬儀のため、一旦は上洛するが、翌年2月に帰国すると「夏までに領内の城を補修せよ」と命じている。この時点での意図はわからないが、3月には会津盆地の中央に神指城(こうざしじょう)の築城を始めた。それまでの若松城が会津盆地の隅にあり、規模も小さかったために直江兼続の監督下で建設を始めている。
神指城は、純粋な軍事目的というよりも阿賀野川の水運を発展させるためのものだったが、かなり大規模な城になる「予定」だった。
家康の影
この動きに神経を尖らせていたのが景勝の後に越後の大名となった堀秀治である。秀治は、景勝が軍備を整え謀反を企てているのではないかと家康に報告し、家康もまた景勝に上京を求めた。
その真意を探るためである。
政権の許しもなく築城を開始するのは謀反の準備ではないかと見ていたが、景勝はこれに従うことはなかった。確かにこの時点で大きな権力を握っていたのは家康だが、家康とて秀吉の後継者というわけではない。景勝からすれば「天下人気取り」に思えたことだろう。
会津に移ったばかりの上杉としては、その権力の象徴ともいえる城はいささか心もとない状態である。となれば、大老を預かる景勝としては新たに城を築くのは当然であろう。しかも、それは領地の経済発展を目的としたものなら、家康にとがめられる筋合いもない。
だからこそ、景勝は上洛しないばかりか『直江状』を送りつけたのである。
直江状
※直江兼続
この直江状の内容だが、なかなかにえぐい。
まず、上洛して釈明するようにという要請に対しては、「会津に移ったばかりでそう何度も上洛はできません。それでは内政が行えないので。それに会津は雪国なので、10月~12月までは何も出来ませんよ。上杉が謀反に備えているというのなら、まずはそう言っている者に問い正せばいいのではありませんか。それが出来ないということは、謀反を企んでいるのは家康様のほうではないんですか?」と答えている。
さらに、武器を集めたり、領内を整備しているのは謀反のためではないか、という問いに「確かに集めていますよ。上方の方々は茶器や瓢炭斗(ふくべすみとり)以下の人たらし道具を集めているようですが、同じように田舎の武士は武器を集めています。領内の整備もこれからの発展のためであり、謀反を起すなら逆に交通を遮断しますよ」と述べた。
瓢炭斗(ふくべすみとり)とは炭を入れるものであり、それにも値しないような品々を集めては、他人をたらしこんでいるのでしょう?というわけだ。
さらに、最後には「証拠もなしに謀反だという誰かは太閤様の遺志に従わず、好き勝手にやっておりますな」とまで書いている。
景勝の義
「直江状」については、後世に改変されたものであるという説もあるが、家康を挑発し、あざけるような内容だったことは間違いないだろう。これで家康は会津征伐の大義名分が得られることとなるが、実際に激怒したはずである。ただの挑発だけなら上杉にとって何の利もない。家康を怒らせ、上杉の態度を明確にすることが目的だったのだ。
案の定、家康の大軍は会津を目指すのだが、一方の上杉方も神指城の建設を中断して、これに対抗しようとした。このチャンスに石田三成らが兵を挙げたため、家康はそちらに兵を向けざるを得なくなり、会津での戦いは回避された。
ここまで景勝は豊臣方の武将として、家康と対抗する立場を貫いてきたが、それも豊臣家に対する「忠誠」とはいささか異なる。先代・謙信公が守り抜いた越後の独立を、豊臣(当時は羽柴)に頭を下げることで失い、加増された際には上杉の誇りである越後国を去らねばならなかった。だから「義」は守るが、本心から秀吉に忠誠を誓ったわけではない。
しかし、それにも増して家康の数々の行いが傍若無人に思えたからこそ、家康と対立する道を選んだのである。
最後に
直江状を送った時期は、最上義光、伊達政宗といった東軍勢と睨み合っていた時期でもある。プライドを捨てるのであれば、家康に服従することで慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)も避けられたかもしれない。
しかし、それでは亡き謙信公に合わせる顔がないという思いがあったに違いない。
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それまでの若松城が規模も小さかったためって当時は7層天守の巨大城郭ですよ(現在は5層)
移転したかったのは鶴ヶ城の近くに城を見渡せる小田山の存在があり防御面に不安があった
上杉征伐の原因は堀家への嫌がらせだし堀家に対して義に反する行いをしていた事実があるのに義の為に家康と戦ったと言うのは無理があるのでは?