松平定政とは
松平定政(まつだいらさだまさ)は徳川家康の甥として生まれた。
徳川一門として取り立てられて徳川幕府三代将軍・徳川家光の小姓を務め、その後、徳川譜代が代々藩主となった刈谷2万石の藩主となったが、将軍・家光が亡くなると突然所領を返上して、大名の地位も何もかも捨てて出家した人物である。
幕政批判をして「自分の所領を旗本の救済にあてて欲しい」と前代未聞の出家事件を起こし、幕府老中・松平信綱は「狂気の沙汰」として処分を下した。
江戸時代初のテロ事件の首謀者・由井正雪が、この事件に対する幕府の対応を「忠義の士を欺く行為」と遺言にしたためていたため、この事件の影響は新将軍就任の幕藩体制を大きく動揺させた。
徳川家康の甥でありながら大名を捨てて出家した男・松平定政について解説する。
松平定政の出自
松平定政は慶長15年(1610年)徳川家康の異父弟、松平定勝の六男として生まれる。
定勝の母・於大の方(おだいのかた)は徳川家康の生母であり、久松俊勝と再婚して定勝が生まれたために、定政は家康の甥にあたる。
定政は、徳川幕府三代将軍・徳川家光の小姓を務め、寛永10年(1633年)に従五位下・能登守に叙任。
寛永12年(1635年)には長島城7,000石を賜り、慶安2年(1649年)には徳川譜代の大名が代々藩主となる刈谷2万石の藩主となり、大名となる。
三河武士の代表とも言える水野勝成・水野忠清・松平忠房など、家康からの譜代が刈谷藩主となっていることから、定政はそれだけ家光に信頼されていたと考えられる。
出家事件
将軍・家光が慶安4年(1651年)4月20日に48歳で死去してしまう。
将軍職にはわずか11歳であった家光の嫡男・家綱が就任することに決まる。
家綱が第四代将軍に就任する1か月前の慶安4年(1651年)7月10日、幕府を揺るがす大事件が起きた。
定政はこの前日の7月9日に作事奉行の牧野成常ら6人を自邸に招き入れ、料理を振る舞った後に皆に頼みたいことがあると口を開いた。
「自分は家光公の深い御恩を受けたので一度は殉死を考えたが、果たさないまま今日に至った。幼い将軍に仕えて力を尽くそうとも思ったが、今の執政の方々のやり方を見ていると世の中は遠からず乱れてしまうだろう」
「現段階の執政たちの家綱公を補佐する体制では、とても天下を治められるとは思えない」
そして意見書を幕府の要人に提出するように、牧野らに託した。
その意見書は
「自分の領地・居宅・諸道具を一切返上して、それを困窮した旗本の救済に当てて欲しい。返上した2万石を旗本に5石ずつ分ければ4,000人の旗本が助けられる」
という内容であった。
そして翌10日には、幕府に無届けで東叡山寛永寺にて遁世落髪して「能登入道不伯」と号した。
この時、定政は刀を差したまま墨染めの衣をまとい、江戸市中を托鉢して回ったという。
「松平能登入道に物を給え」と叫びながの行脚に、江戸市中の人々が驚いた。
狂気の沙汰
1か月後にはわずか11歳の幼き将軍の就任を控えており、幕府は政情不安を招きかねない大名や旗本の言動に、特に目を光らせていた時であった。
三河武士団からの譜代である徳川一門の松平家の人間が、なぜ急にこんな行動をとったのかと幕閣たちは大混乱となった。
提出された意見書を前に幕閣は対応を協議し
「徳川一門の大名による表立った幕政批判などあってはならない」「改易はやむを得ないところだが、定政は信君・家康公の甥であり余り厳しい処罰を下す訳にはいかない」
といった意見でまとまった。
この時期の幕閣一の実力者は「知恵伊豆」と称された松平信綱で、他には家光の弟・保科正之らが幼き将軍・家綱を支える体制であった。
松平信綱は定政の出家事件を「狂気の沙汰」として、改めて所領を没収、定政は永蟄居として本家筋の兄・松平定行(伊予松山藩主)の預かりとした。
定政の長男・定知と次男・定清も、共に伊予松山藩に預かりとなった。
定政の2人の娘は正室と共に実家の永井家に返された。
その後、定政は家綱から給米2,000俵を賜り、暮らしには困らず和歌や華道にいそしみながら寛文12年(1672年)11月24日、63歳まで生きた。
定政の死後、長男・定知は江戸に召し返されて1,500石の旗本に、次男・定清は廩米500俵の旗本となっている。
事件の影響
松平信綱が下した裁定は、大きな組織が陥りがちである事件の本質をうやむやにする、事を荒立てない解決策であった。
定政の出家事件から2週間後の7月23日、幕府転覆を画策した軍学者・由井正雪の乱(慶安の変)が発覚。
幕府はこの乱が実行される前に捕縛に成功し由井正雪は自害。駿府の宿で自決した首謀者である由井正雪の遺言には、今回の定政の事件に対する幕府の対応を「忠義の志を欺く行為」としたためてあった。
由井正雪が乱を決起するにあたって、定政への処分の批判が理由の一つでもあった。
定政は幕府に忠義を示した人物であり、それを処分した松平信綱ら幕閣たちこそ忠義に反しているように見えた。
確かに松平信綱は三代将軍・家光の一番の側近なのに殉死していなかった。
殉死しなかった理由は家光から「家綱のことを頼む」と懇願されていたためだったが、それは身近な者しか知らないことであった。
由井正雪の乱の一番の要因は、江戸に溢れた浪人問題であった。
幕閣は世情不満につながる浪人問題について協議を始め、老中・酒井忠勝は「由井正雪が陰謀を企てたのは浪人が江戸に集まっているからであり、江戸から浪人を追放するべし」と主張。保科正之や松平信綱はこの主張に賛成した。
しかし、老中・阿部忠秋が「そもそも浪人が江戸に集まるのは、仕官の道を求めてのこと。これ以上浪人が増えないように新しい施策を打ち出す必要がある」と反論した。
これを聞いた松平信綱らは「浪人追放論」を取り下げ、大名家の「末子養子の緩和」など、大名統制を緩める施策に踏み切り、浪人たちの就職の斡旋にも乗り出した。
この施策の実行によって、家康から家光の代までに120以上あった大名家の改易は、家綱の代には26にまで減った。
家光政権までは幕府の基盤を固めるために容赦なく改易や減封を行う厳しい「武断政治」だったが、家綱政権からは法律や学問、礼儀や人命の尊重などを重視する「文治政治」へと幕府は大きく舵を切った。
堀田正信も「狂気の沙汰」
万治3年(1660年)には定政の姪の婿にあたり、下総佐倉藩第2代藩主の堀田正信が、突然に幕政批判の上書を幕閣に提出したうえに無断で領地へ帰城した。批判の内容も「旗本や御家人、人民たちが窮乏しており、自らの領地を返上して救いたい」と定政と同じ内容であった。
この時も松平信綱の「狂気の作法(本来なら三族の罪に当たるが狂人ならば免除できるという理屈)」が通り、堀田正信は所領没収のうえに永蟄居、弟・脇差安政にお預かりという処分になった。
この事件は定政の出家事件が遠因だともされている。(事の真偽は不明)
おわりに
徳川家光は「生まれながらの将軍」として全国の諸大名に対して「武断政治」を断行した。老中・松平信綱はそれを側近として支えたが切れ者の彼には多くの敵がいたのだろう。
松平定政もその中の1人だったのかもしれない。定正は殉死を選ばず、所領を返上して大名の座を捨て出家するという前代未聞のやり方で幕藩体制に抗議をした。
そのすぐ後に、江戸時代が始まって以来のテロ事件「由井正雪の乱」が未遂という形であれ発覚。
徳川幕府は平和な時代へと方向転換をすることになった。
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