戦国の世は、家臣が主君を、親が子を、子が親を裏切るのが当たり前の時代だった。
「義」を重んずる上杉謙信でさえ、家臣の反乱があったほどだ。しかし、主君よりも位の高い者に問われてなお、主君を選ぶ武将はとても少ない。
それが、本多忠勝という男であった。
初陣での初首
※本多忠勝
本多忠勝(ほんだただかつ/天文17年2月8日(1548年3月17日)~慶長15年10月18日(1610年12月3日))は、安祥松平家(徳川本家)最古参の安祥譜代の本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。
天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育つ。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。家康が17歳のときである。
初首は14歳の時で、鳥屋根城攻めで叔父の忠真の部隊に属し、この時忠真が槍で敵兵を刺しながら忠勝を招き、「この首を取って戦功にしろ」と言ったが、
忠勝は
「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや(人の力を借りて立てた武功は武功ではない)」
と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った。
以後、生涯において参加した合戦は大小合わせて57回、相手との直接対決は100戦以上とされるが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
家康の側近へ
※三河一向一揆
今川義元が敗死し、それまで今川に従属していた家康が独立すると、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。
永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、浄土真宗本願寺派門徒が領主の松平(のちの徳川)家康に対して一揆を起す。
三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。
敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与することになってしまう。そのなかでも多くの本多一族が敵となったことは、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。
そのような状況下でも、本多忠勝は一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げる。
永禄9年(1566年)には19歳で旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み旗本部隊の将として活躍する。
旗本先手役とは、徳川家にあって旗本を自身の護衛のみではなく、積極的に戦闘に投入することを目的とした城下に常駐する部隊のことである。戦国の時代には、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。
徳川四天王
※武田信玄
元亀3年(1572年)には、武田信玄が27,000の大軍をもって遠江に侵攻した時、家康は3,000の兵を率いて偵察に出たが、たちまち発見され、一言坂に追い詰められた。忠勝は殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取りながらも奮戦することにより、家康本隊を無事に浜松城に撤退させる。
さすがの武田軍も、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八郎忠勝」と讃えたという。
「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。一説によれば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。
また、後年これを真似た狂歌として「(石田)三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」というものがある。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、逃げる武田軍が投げ捨てた旗を拾い、「軍旗を捨てるとは何事か」と嘲た。しかし、その後の忠勝はどこか物憂げであり、家臣がその訳を尋ねると、「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚痴をこぼしたという。
これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある。
蜻蛉とは、忠勝愛用の槍「蜻蛉切」のことだ。
秀吉の信頼
※豊臣秀吉
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。
秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言したが、忠勝の勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ
「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」
と忠勝を討ち取ることを禁じたという。
豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると秀吉に召しだされたことがあった。秀吉に「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えた。
「君のご恩」とは小牧・長久手の戦いで秀吉が兵を退かせたことである。「それは感謝するが、徳川家は代々の主君であり、その年月には及ばない」ということだ。
最期まで忠臣として
※関ヶ原の戦いの本多忠勝陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍した。
但し、本多本隊は嫡男の忠政が率いており、忠勝は徳川本陣にあって、豊臣恩顧の武将の監視役にあったともいわれる。さらに東軍の兵士達は背後に陣を構えた毛利・長宗我部軍の動向を気にしていた。その時、忠勝は「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、山の上ではなく、山を下って陣を構えるはず。今山の上にいるのは、戦う意志がないからである」と言い、味方を安心させたという。
本戦でも奮戦し、僅かな手勢で90にも及ぶ首級をあげた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている。
桑名藩に落ち着いたあとも、忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。しかし、病により慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。
忠勝は臨終に際して
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という
(侍が敵の首を取れないのであれば確かに手柄にはならないが、それよりも味方が窮地の時は逃げずに主君と共に討ち死にを遂げ、忠節を守るものこそ侍である)」
という言葉を遺している。
最期に
まさに「忠勝」の名に相応しい武将である。
戦場では、名槍「蜻蛉切」を手に無敗。家康ただひとりを主君として、我欲を持たずに尽くした人生であった。
その勇猛さ故にあまり語られることはないが、晩年の政策を見ればわかるように、ただ戦いのみに長けた武将ではなく、明晰な頭脳を持ち、常に冷静な判断を行えたからこそ、家康も天下を取れたのである。
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